第1問 次の文章は、香川(かがわ)雅信(まさのぶ)『江戸の妖怪革命』の序章の一部である。本文中でいう「本書」とはこの著作を指し、「近世」とは江戸時代にあたる。これを読んで、後の問い(問1~5)に答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に【1】~【18】の番号を付してある。

 

(前略)

【10】 では、ここで本書の議論を先取りして、Bアルケオロジー的方法によって再構成した日本の妖怪観の変容について簡単に述べておこう。

【11】 中世において、妖怪の出現は多くの場合「凶兆」として解釈された。それらは神仏をはじめとする神秘的存在からの「警告」であった。すなわち、妖怪は神霊からの「言葉」を伝えるものという意味で、一種の「記号」だったのである。これは妖怪にかぎったことではなく、あらゆる自然物がなんらかの意味を帯びた「記号」として存在していた。つまり、「物」は物そのものと言うよりも「記号」であったのである。これらの「記号」は所与のものとして存在しており、人間にできるのはその「記号」を「読み取る」こと、そしてその結果にしたがって神霊への働きかけをおこなうことだけだった。

【12】 「物」が同時に「言葉」を伝える「記号」である世界。こうした認識は、しかし近世において大きく変容する。「物」にまとわりついた「言葉」や「記号」としての性質が剝ぎ取られ、はじめて「物」そのものとして人間の目の前にあらわれるようになるのである。ここに近世の自然認識や、西洋の博物学に相当する本草学(ほんぞうがく)という学問が成立する。そして妖怪もまた博物学的な思考、あるいは嗜好(しこう)の対象となっていくのである。

【13】 この結果、「記号」の位置づけも変わってくる。かつて「記号」は所与のものとして存在し、人間はそれを「読み取る」ことしかできなかった。しかし、近世においては、「記号」は人間が約束事のなかで作り出すことができるものとなった。これは、「記号」が神霊の支配を逃れて、人間の完全なコントロール下に入ったことを意味する。こうした「記号」を、本書では「表象」と呼んでいる。人工的な記号、人間の支配下にあることがはっきりと刻印された記号、それが「表象」である。

【14】 「表象」は、意味を伝えるものであるよりも、むしろその形象性、視覚的側面が重要な役割を果たす「記号」である。妖怪は、伝承や説話といった「言葉」の世界、意味の世界から切り離され、名前や視覚的形象によって弁別される「表象」となっていった。それはまさに、現代で言うところの「キャラクター」であった。そしてキャラクターとなった妖怪は完全にリアリティを喪失し、フィクショナルな存在として人間の娯楽の題材へと化していった。妖怪は「表象」という人工物へと作り変えられたことによって、人間の手で自由自在にコントロールされるものとなったのである。こうしたC妖怪の「表象」化は、人間の支配力が世界のあらゆる局面、あらゆる「物」に及ぶようになったことの帰結である。かつて神霊が占めていたその位置を、いまや人間が占めるようになったのである。

【15】 ここまでが、近世後期――より具体的には十八世紀後半以降の都市における妖怪観である。だが、近代になると、こうした近世の妖怪観はふたたび編成しなおされることになる。「表象」として、リアリティの領域から切り離されてあった妖怪が、以前とは異なる形でリアリティのなかに回帰するのである。これは、近世は妖怪をリアルなものとして恐怖していた迷信の時代、近代はそれを合理的思考によって否定し去った啓蒙(けいもう)の時代、という一般的な認識とはまったく逆の形である。

【16】 「表象」という人工的な記号を成立させていたのは、「万物の霊長」とされた人間の力の絶対性であった。ところが近代になると、この「人間」そのものに根本的な懐疑が突きつけられるようになる。人間は「神経」の作用、「催眠術」の効果、「心霊」の感応によって容易に妖怪を「見てしまう」不安定な存在、「内面」というコントロール不可能な部分を抱えた存在として認識されるようになったのだ。かつて「表象」としてフィクショナルな領域に囲い込まれていた妖怪たちは、今度は「人間」そのものの内部に棲(す)みつくようになったのである。

【17】 そして、こうした認識とともに生み出されたのが、「私」という近代に特有の思想であった。謎めいた「内面」を抱え込んでしまったことで、「私」は私にとって「不気味なもの」となり、いっぽうで未知なる可能性を秘めた神秘的な存在となった。妖怪は、まさにこのような「私」を投影した存在としてあらわれるようになるのである。

【18】 以上がアルケオロジー的方法によって描き出した、妖怪観の変容のストーリーである。

 

(注)

本草学…もとは薬用になる動植物などを研究する中国由来の学問で、江戸時代に盛んとなり、薬物にとどまらず広く自然物を対象とするようになった。

 

問5 この文章を授業で読んだNさんは、内容をよく理解するために【ノート1】~【ノート3】を作成した。本文の内容とNさんの学習の過程を踏まえて、(ⅰ)~(ⅲ)の問いに答えよ。

 

(ⅱ) Nさんは、本文で述べられている近世から近代への変化を【ノート2】のようにまとめた。空欄【 Ⅲ 】・【 Ⅳ 】に入る語句として最も適当なものを、後の各群の①~④のうちから、それぞれ一つずつ選べ。

 

【ノート2】

 近世と近代の妖怪観の違いの背景には、「表象」と「人間」との関係の変容があった。

 近世には、人間によって作り出された、【 Ⅲ 】が表れた。しかし、近代へ入ると【 Ⅳ 】が認識されるようになったことで、近代の妖怪は近世の妖怪にはなかったリアリティを持った存在として現れるようになった。

 

 【 Ⅲ 】は問4とほとんど同じ答えになります。

 【段落12】~【段落14】の内容を改めてまとめると、次のようになるでしょう(必ずまず自分で考えてみてから先に進んでください)。

 

 「名前や視覚的形象によって弁別され、人間の娯楽の題材とされる表象としての妖怪」

 

 【 Ⅲ 】の選択肢は次のようになっています。

 

【 Ⅲ 】に入る語句

① 恐怖を感じさせる形象としての妖怪

② 神霊からの言葉を伝える記号としての妖怪

③ 視覚的なキャラクターとしての妖怪

④ 人を化かすフィクショナルな存在としての妖怪

 

 正解はですが、と迷います。

 「人を化かす」というのが、一般的には妖怪とはそういうものかも知れないが、本文には書かれていない要素なので×。

 

 次に、【 Ⅳ 】の部分について。

 こちらは【段落16】~【段落17】の内容をまとめればよいので、次のようになるでしょう。

 

 「不安定な内面を抱えた人間という存在の不気味さや神秘性」

 

 【 Ⅳ 】の選択肢は次の通りです。

 

【 Ⅳ 】に入る語句

① 合理的な思考をする人間

② 「私」という自立した人間

③ 万物の霊長としての人間

④ 不可解な内面をもつ人間

 

 これは迷いなくを選ぶことができるでしょう。

 

 続いて、最後の問題。

 これがこの大問の中で一番おもしろいのです。

 

(ⅲ) 【ノート2】を作成したNさんは、近代の妖怪観の背景に興味をもった。そこで出典の『江戸の妖怪革命』を読み、【ノート3】を作成した。空欄【 Ⅴ 】に入る最も適当なものを、後の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

【ノート3】

 本文の【17】には、近代において「私」が私にとって「不気味なもの」となったということが書かれていた。このことに関係して、本書第四章には、欧米でも日本でも近代になってドッペルゲンガーや自己分裂を主題とした小説が数多く発表されたとあり、芥川龍之介の小説「歯車」(一九二七年発表)の次の一節が例として引用されていた。

 

 第二の僕、――独逸(どいつ)人の所謂(いわゆる)Doppelgaengerは仕合(しあわ)せにも僕自身に見えたことはなかった。しかし亜米利加(あめりか)の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「先達(せんだって)はつい御挨拶もしませんで」と言われ、当惑したことを覚えている。)それからもう故人になったある隻脚(かたあし)の翻訳家もやはり銀座のある煙草(たばこ)屋に第二の僕を見かけていた。死はあるいは僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかった。

 

(考察)

 ドッペルゲンガー(Doppelgaenger)とは、ドイツ語で「二重に行く者」、すなわち「分身」の意味であり、もう一人の自分を「見てしまう」怪異のことである。また、「ドッペルゲンガーを見た者は死ぬと言い伝えられている」と説明されていた。【 Ⅴ 】

 【17】に書かれていた「『私』という近代に特有の思想」とは、こうした自己意識を踏まえた指摘だったことがわかった。

 

① 「歯車」の僕は、自分の知らないところで別の僕が行動していることを知った。僕はまだ自分でドッペルゲンガーを見たわけではないと安心し、別の僕の行動によって自分が周囲から承認されているのだと悟った。これは、「私」が他人の認識のなかで生かされているという神秘的な存在であることの例にあたる。

 

② 「歯車」の僕は、自分には心当たりがない場所で別の僕が目撃されていたと知った。僕は自分でドッペルゲンガーを見たわけではないのでひとまずは安心しながらも、もう一人の自分に死が訪れるのではないかと考えていた。これは、「私」が自分自身を統御できない不安定な存在であることの例にあたる。

 

③ 「歯車」の僕は、身に覚えのないうちに、会いたいと思っていた人の前に別の僕が姿を現していたと知った。僕は自分でドッペルゲンガーを見たわけではないが、別の僕が自分に代わって思いをかなえてくれたことに驚いた。これは、「私」が未知なる可能性を秘めた存在であることの例にあたる。

 

④ 「歯車」の僕は、自分がいたはずのない場所に別の僕がいたことを知った。僕は自分でドッペルゲンガーを見たわけではないと自分を落ち着かせながらも、自分が分身に乗っ取られるかもしれないという不安を感じた。これは、「私」が「私」という分身にコントロールされてしまう不気味な存在であることの例にあたる。

 

⑤ 「歯車」の僕は、自分がいるはずのない時と場所で僕を見かけたと言われた。僕は今のところ自分でドッペルゲンガーを見たわけではないので死ぬことはないと安心しているが、他人にうわさされることに困惑していた。これは、「私」が自分で自分を制御できない部分を抱えた存在であることの例にあたる。

 

 さて、正解はどれでしょうか?

 

(おまけ)

 

 

 いかにも神経質そうな風貌の芥川さん(画像は『新詳日本史』(浜島書店・2012年版)から)。

  前回 の実存主義者の人たちに言ったのと同じことを、芥川さんにも言ってあげたいと思います。

 余り考え過ぎずに、ごはんを食べて寝た方がいいよ!

(つづく)