この『アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい』シリーズの「その3」を書くにあたって、「その1」「その2」をざっと読み直してみたのですが、余りにも文章が硬くて、こんなの誰が読むんだろう、と思いました。

 時代はもっとライトなものを求めています。

 YouTubeやTiktokに慣れた人々は、10分以内に結論が示されなければ、それ以上自分の頭で考えようとはせず、離れていってしまうでしょう。

 とは言え、他に書きようもないのでこの感じで続けます。

 

 このシリーズの主旨は、「クリスチャンの間ですら神様のイメージはゆがんで伝えられている」ということを示し、そのゆがめられている神様のイメージを回復させていく、ということです。

 このことについて考えていこうとすると、どうしても「罪」の問題と向き合わざるを得ない、と思えてきました。

 

 多くのクリスチャンや、あるいは牧師さんですら、「罪とは何か?」という問題について、非常に曖昧(あいまい)なイメージしかいだいていないように思います。すなわち、「罪とは不道徳なおこないをすること」ということです。

 確かに不道徳なおこないは罪ですが、聖書の教える罪とは、もっと根本的な話であるように思います。

 「罪」について考えるには、やはり『創世記(そうせいき)』に立ち返る必要がありそうです。

 

 神である主(しゅ)は、人に命じられた。「園(その)のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」

(中略)

 神である主が造られたあらゆる野の獣(けもの)の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」 女は蛇に言った。「私(わたし)たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」 蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開(ひら)け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」

(旧約聖書・創世記・2章16節~3章5節・聖書協会共同訳)

 

 少し説明を足しておくと、上の聖書箇所中に出てくる「人」と「女」というのが、それぞれ、いわゆる「アダム」と「エバ」です。

 また、「(中略)」の1つ前の文、「取って食べると必ず死ぬことになる。」のところは、原文のヘブライ語では「取って食べると、その日、あなたは必ず死ぬ。」となっていると、『旧約聖書と新約聖書』(上村(うえむら)静(しずか)・新教出版社)という本の中で指摘されていました。

 

 楽園で暮らしていたアダムとエバに、神様は、「園の中にある多くの木の実はどれでも取って食べてよいが、『善悪の知識の木の実』だけは決して食べてはならない。」と命じました。

 物語のお約束の展開として、アダムとエバはその善悪の知識の木の実を、その後、絶対に食べてしまうわけですが、それを彼らにそそのかしたのが賢い蛇でした。

 

 余談になりますが、「聖書に書いてあることは全て歴史的事実であり、進化論は間違いだ」と主張している人々が、アメリカには現在でも多くいて、学校で進化論を教えることに反対している、というニュースがときどき物珍しく取り上げられますが、実は、日本でも、進化論に反対している教会はたくさんあるのです。

 この業界では、そのような人たちは、「聖書の教えを忠実に信じている」ということで、むしろ賞賛される傾向にあります。

 そういった人たちは、この聖書箇所を指して、

「当時、蛇が人間の言葉を話していたということは、昔の蛇はのどに声帯があったのだが、アダムとエバをたぶからしたことの罰で、その後、声帯が失われたのだ。」

ということを大真面目で主張しています。

 全くばかばかしいことです。

 

(『ニューステージ世界史詳覧』

(浜島書店)2012年版より)

 

(つづく)