エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野での長い旅路を経て、ようやく、神様によって示された土地であるカナンの地(現在のイスラエルのあるところ)をヨルダン川の対岸に望む場所まで来ました。

 そこで、神様が多くの言葉を彼らに示されたのですが、そのうちの一つがこれです。

 

 あなたがたがエジプトを出て来たとき、その途上で、アマレクが行(おこな)ったことを、あなたは思い起こしなさい。彼らは道であなたと出会い、あなたが疲れ切っていたとき、あなたの後方にいる、疲れ切ったすべての者たちに背後から襲いかかり、神を畏(おそ)れることがなかった。あなたの神、主(しゅ)が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。

(旧約聖書・申命記(しんめいき)・25章17~19節・聖書協会共同訳)

 

 読んで普通に意味は分かると思うんですが、ここで問題にしたいのは、最後の2つの文、

 

 あなたの神、主(しゅ)が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるとき、あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。

 

のところです。

 

 この、「アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。」という言葉は、多くの聖書の注解書によると、「神様がイスラエルの民に、アマレク人たちと戦って、彼らを一人残らず滅ぼし尽(つ)くしなさい、と命じているのである。」と解釈されています。

 しかし、この解釈はおかしい、というのが僕の主張です。

 神様は、「アマレクの記憶を消しなさい」と命じているのです。それがどうして「アマレク人を滅ぼしなさい」という話になるのでしょうか?

 

 多くのクリスチャンが、「新約の神様は優しくて好きだけど、旧約の神様は冷たくて怖いというイメージで、余り好きになれない。」と語ります。

 「新約」「旧約」とは、前回説明したように、「新約聖書」と「旧約聖書」のことで、簡単にまとめると、

 

 旧約聖書…紀元前に書かれた、神と古代イスラエルの歴史の記録

 新約聖書…1~2世紀に活動したイエス・キリストとその弟子たちの言行録

 

という感じです。

 旧約聖書はユダヤ教の聖典で、旧約聖書と新約聖書を両方合わせてキリスト教の聖典です(ユダヤ教徒たちは新約聖書を聖典としては認めていません)。

 

 旧約に描(えが)かれている神様と新約に描かれている神様は、同じ神様なのに、多くのクリスチャンが、まるで別々の神様であるかのように、異なったイメージをそれぞれの神様に対して抱(いだ)いているのはどうしてでしょうか?

 そして、神様は結局アマレク人をどうしろと言っているのか?

…といったことについて、(なんだか余りにも難しい問題で、だんだん僕の手に負えなくなりつつあるのを感じつつ、)次回、できるだけ考えてみたいと思います。

 

過越祭(すぎこしのまつり)

の説明とモーセの下半身。

(『ニューステージ世界史詳覧』

(浜島書店)2012年版より)