約2週間に1回更新している『さいき塾長日記』、 前回 から河合塾の『マーク式基礎問題集・現代文・八訂版』(河合出版)を通して、遠藤周作さんの初期短編、『異郷の友』を読んでいます。

 では、本文をもう一度、最初から読んでみましょう。

 

 次の文章は、遠藤(えんどう)周作(しゅうさく)『異郷の友』の一節である。「私」は数年ぶりに自分の母校にぶらりと立ち寄り、かつてのフランス留学仲間「四国邦夫」に遭(あ)うが、互いに冷たい挨拶をかわすのみであった。そして、「私」は留学時代を回想し始める。これを読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に【1】~【29】の番号を付してある。
 

【1】 1950年は朝鮮事変のはじまった年だった。そして私と四国邦夫とはリヨンの町でただ二人の日本人であり、リヨンの大学でただ二人の日本人留学生だった。

【2】 私の下宿と彼の下宿とはバスで二十分もかかるほど離れていた。けれども二人は大学が始まるまでの幾週間、顔を毎日あわせ、一緒に飯をくい、つれだって市役所に登録に行ったり学校に手続(てつづき)に出かけたりしたものである。日本では同じ大学を出ながらほとんど話しあう機会もなかった二人だったが、私はこの分ならばリヨンでのながい生活で二人の生活がそれほど噛(か)みあわないことはないと考えはじめた。いやそれ以上になにか彼にたいして友情めいた気持(きもち)さえ持ちだしている自分に気がついたのだった。

【3】 だがA外国生活になれぬ私は一種の錯覚にかかっていたのである。はじめて異郷の街に放りだされた私と四国とはあたらしい不安な生活に一人、一人で当(あた)るよりは二人でぶつかる方がはるかに便利だったにすぎない。勿論(もちろん)、同じ国からきた同じ学校の入学者だという親しみもそれに加わった。けれども相手の気質や物の考え方が似通っているか似通っていないかを検討する前に、私たちは手を握りあってしまったのである。
【4】 私がこの事実に気がついたのは大学の新学期がはじまる四日前だった。私たちはその日、二人が入学する文学部の学生補導課長ブレモン教授の事務室をたずねることになっていた。
【5】 先生は頭のはげた眼(め)の鋭い人だった。机の上にはさまざまな書類や本が雑然と放りだされていた。そしてその真中(まんなか)に木の台のついた十字架がおかれ、壁には基督(キリスト)の聖画が飾られてあった。それを見て私はすぐ先生が敬虔(けいけん)な基督教信者であることに気がついたのである。
【6】 しばらくの間、下宿のことやあたらしい生活の状況を質問されたのち、先生は書類をひろげながら二人が専攻する勉強についてたずねた。四国は哲学をやり私は仏文学を学ぶことになっていた。先生はどんな哲学に興味があるのかと四国にきかれた。
「基督教哲学です」
と彼は両手を窮屈そうに肥(ふと)った膝の上にそろえながら返事をした。
「わたしは基督教徒ですから」
「ほう」
先生は好奇心と好意にみちた眼差(まなざ)しを急に四国にむけて体を前にかたむけた。
「君は基督教徒だったのかね」
「はい」彼は太縁の眼鏡を真正面にむけながら肯(うなず)いた。「家族もみなそうです」
【7】 驚いたのは先生だけではなかった。私も少し意外な気がしたのである。意外だったというのは彼が嘘言(うそごと)を言ったからではない。これは嘘ではなかった。三週間になる四国との交際で私も彼が子供の時、洗礼をうけたということを、いつか街の大教会を見物に行った時、きかされた記憶があるからである。だがその時、四国は自分にはもう信仰なぞないこと、現在の基督教には全く疑問しかもっていないことを(ア)事もなげに言っていたのだった。
【8】 私はしばらく、ぼんやりと窓からながれこむ陽の光がそこだけ丸い日だまりをこしらえている机の上を眺めていた。机の上には木の台のついた十字架があった。なぜか知らないが始めてリヨンに着いた朝がた、タクシーの中で四国がこの保守的な街では言動に注意した方がトクだと言った言葉を心に甦(よみがえ)らせた。
【9】 先生はしばらくの間、四国と、私には興味のない話を続けていた。それからやっと私の存在に気がついたように、軋(きし)んだ音をたてながら廻転(かいてん)椅子をこちらにむけた。
「君も基督教徒かね」
「いいえ」そう返事をしたのは私ではなく四国だった。「彼は無神論者でしょう」

 

 とりあえずここまで読んでおいて、問いに行きます。
 

問1 傍線部(ア)~(ウ)の語句の本文中における意味として最も適当なものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。
 

(ア) 事もなげに
 

① ためらいがちな様子で ② 自信に満ちあふれた様子で ③ おおげさな様子で ④ 気にもせず無造作な様子で ⑤ とまどいがちな様子で

問2 傍線部A「外国生活になれぬ私は一種の錯覚にかかっていた」とあるが、「一種の錯覚」とはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
 

① どんなに気質や物の考え方が違っていても、ただ一人の留学生仲間である四国とは友情を保っていけると思っていたこと。

② 同じ国、同じ学校からやって来た「ただ二人の日本人留学生」であれば、友情が培われていくに違いないと思っていたこと

③ 異国生活の心細さから頼り合っていたにすぎない私と四国との関係を、友情によるものであるかのように思っていたこと。

④ 日本ではあまり話す機会もなかったが、しばらく異国で付き合い気心の知れた今、友情が深められるだろうと思っていたこと。

⑤ 四国は私を利用するためだけに私を仲良くしていたのに、私はそれを友情の表れだと思っていたこと。

 


 

 四国はいかにもいやなやつなのであります。

 まず問1の(ア)から見ていきましょう。

 本文中における意味として最も適当なものを選べ、と言っていますが、だまされてはいけません。

 本文中における意味ではなく、辞書的な意味を選ぶのです。

 

 手もとの辞書(『学研 現代新国語辞典 改訂第四版』(学研))によると、次のように出ています。

 

 こともなげ【事も無げ】 《形動》 難しいことや重大な事態に際して、何事もないかのように平気でいるようす。「――にやり終える」

 

 ということで、正解は「④ 気にもせず無造作な様子で」ですね。

 

 続いて、問2。

 こっちの方がちょっと難しいですね。

 「一種の錯覚」とはどういうことか。

 傍線部Aの前に、その錯覚が書かれています。

 そして、傍線部Aのあとに、それがどのような錯覚なのかという説明が書かれています。

 ということで、傍線部Aの前後をまとめて、自分なりの正解を作ってみると、

 

 私と四国とは、ただ便利なので一緒に過ごしていただけなのに、それが友情の始まりであると誤解していたこと。

 

のような感じでよいでしょう。

 

 ドラえもん状態ですね。

 普段のテレビアニメのときは喧嘩ばかりしているのに、映画版ドラえもんで宇宙や未来や恐竜時代などに行き、冒険するときだけ急に友情が芽生える、みたいな。

 

 例えば、知らない人ばっかりの立食パーティーに参加して、少し心細い気持ちでいるときに、たまたま知っている人を見かけ、普段はたいして親しくもないのに、そのときだけ急に親しみを感じて声をかけ、同じテーブルに誘うときのような、そんな感じ。

 

 ということで、この線に沿って選択肢を見ていき、該当するものを探していくと、「③ 異国生活の心細さから頼り合っていたにすぎない私と四国との関係を、友情によるものであるかのように思っていたこと。」が正解であることが分かります。

 

 このように、現代文の問題を解くときには、それが可能であれば、できるだけ選択肢を見る前に自分なりの正解を考えるという癖を付けてください。

 

 では、本文の続きを読んでいきましょう。

 


 

【10】 私はリヨン到着以来はじめてB四国にたいして不愉快な気持をもちながら彼の顔を見あげた。鼈甲(べっこう)の太縁の眼鏡の奥で彼は私を無表情に見つめている。そのまるい大きな無表情な顔がかえってこちらの気分をいらいらとさせるのだった。だから先生からどんな文学をやるのかと聞かれた時、私はこの補導課長を困らすためではなく、むしろ四国に挑むために、わざと、最も醜悪な肉慾(にくよく)を描き反基督教的な考えをもったある近代作家の名を思わず口に出してしまったのである。

【11】 先生はしばらくの間、じっと私の顔を眺めていた。

「折角、仏蘭西(フランス)に来たのだからね」先生はやがてポツリと言った。「わたしは君が真面目に古典の作家を勉強することを奨(すす)めるね」

【12】 この真面目にという副詞のなかに先生が私にたいする不満と皮肉をふくめられているのがこちらの肌に痛いほど感ぜられた。

【13】 それからブレモン先生は私たちに三日後にひらかれる異国学生の歓迎パーティに出席するかと訊(たず)ねた。「悦(よろこ)んで」と答えて四国は椅子からたちあがった。

 

とりあえずここまで読んでおいて、問いに行きます。

 

問3 傍線部B「四国にたいして不愉快な気持をもちながら彼の顔を見あげた」とあるが、なぜ「私」は「四国にたいして不愉快な気持」をもったのか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① 四国が「私」を無神論者だと決めつけることで、教授の好意を自分の方にのみ引き寄せようと計ったから。

 

② 「私」こそ本当の基督教徒だと内心思っていたが、四国がそれを口にすることを封じてしまったから。

 

③ 「私」への質問に対して四国が勝手に答えておきながら、「私」のために答えてやったような顔をしていたから。

 

④ 「私」が無神論者であることは教授に知られたくなかったのに、四国がそれを教授に言ってしまったから。

 

⑤ 四国自身が無神論者であるのに、「私」がそうだと言って、自分の信仰のなさを教授に隠そうとしたから。

 


 

 教授も教授だと思いませんか?

 キリスト教徒であればなんでもいいのか?

 すごくステレオタイプな物の見方をする人だと思います。

 まあ、教会にはこういう人っていっぱいいるけど。

 よく分かってもいないくせに、「わたしは進化論の考え方に反対しています。」と言っている人と、それをむやみに賞賛する人と。

 四国よりもむしろ教授に対して腹が立ってきました。

 

 ということで、今回はここまで。

 約2週間後の次回までに、問3を必ず解いておくこと。

 解かないやつは、テレビドラマ版のジャイアンがのび太をいじめるときみたいにいじめるよ!

 

『ドラえもん のび太の恐竜 1980年版』

(画像は Amazon から)。

子供の頃、父に連れられて

町の公民館に見に行きました。

ドラえもんが大好きだったんです!

 

(つづく)