読んでるマンガ雑誌の発売日 ・・・すみません、忘備録ですので。。。
月曜日 | 週刊少年ジャンプ ヤングマガジン ビックコミック・スピリッツ |
1日 | ビジネスジャンプ |
5日 | ビックコミック・オリジナル | ||
6日 | 月刊少年マガジン | ||
火曜日 | イブニング(第2・第4) | 10日 | ビックコミック |
水曜日 | 週刊少年マガジン スーパージャンプ(第2・第4) |
15日 | ビジネスジャンプ |
20日 | マガジンSPECIAL ビックコミック・オリジナル |
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木曜日 | ヤングジャンプ モーニング ヤングサンデー |
25日 | ビックコミック |
26日 | ガンダムA | ||
金曜日 | ビックコミック・スペリオール (第2・第4) |
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ジェームズ・ディーン(1931年)
アメリカ合衆国の俳優。
インディアナ州のマリオンに生まれ、フェアマウントで育った。母親を9歳の時になくし、父親の姉夫婦に育てられた。
高校時代から演劇に興味をもち、カリフォルニア州立大学の演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、 『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。彼はアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。
『Sailor Beware』のようなつまらない映画の端役をいくつかこなした後、1955年に『エデンの東』のカル・トラスクで初めて主役を演じて、認められた。彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、『ジャイアンツ』ではまたもやアカデミー賞にノミネートされることになる。但し『ジャイアンツ』のジェット役を演じることは彼は乗り気ではなかったようである。[1]
スピード狂で知られていたディーンはポルシェ・550スパイダーを運転中に交通事故で亡くなった(現場は110 Freeway: Los Angeles - Pasadenaと言われている)。『ジャイアンツ』の公開前だった。亡骸は故郷のフェアマウントにある 公園墓地に埋葬された。最初の長編出演(feature role)でアカデミー賞にノミネートされたのは彼を含めて五人しかおらず、また死後に二度ノミネートされたのは彼しかいない。
イタリア人女優ピア・アンジェリとの恋は有名。
彼は、とくに『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者は彼をモデルにして、彼の死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。短すぎるキャリアと衝撃的な死、それに公開葬儀が彼をまぎれもなく時代を超えた魅力を持つ崇拝の対象にした。
出演作品
- 底抜け艦隊 Sailor Beware (1952)
- エデンの東 East of Eden (1955)
- 理由なき反抗 Rebel Without a Cause (1955)
- ジャイアンツ Giant (1956)
その他
- ジェームズ・ディーンの墓はピンクっぽい色をしており、多くのファンによってキスマークがつけられている。
- 1961年に21歳で事故死した俳優・赤木圭一郎は、死後「和製ジェームス・ディーン」と呼ばれた。
- ジェームス・ディーンの事故車のミニカーが販売されたことがある。
- 1996年公開の映画『クラッシュ』には、事故の模様を本物のポルシェ550を使って完全再現するシーンが出てくる。
- モリッシーの「スエードヘッド」のプロモーション・ビデオのラストシーンにジェームズ・ディーンの墓が登場する。
以上、Wikipediaより。
他には、山本寛斎(ファッションデザイナー)、岩館真理子(マンが家)。
若者の永遠のアイドルですね・・・
一番楽なパターンでしたね。。。
日本代表 4 - 1 タイ代表 (19:23/埼玉
/35,130人)
得点者:21' 遠藤 保仁(日本代表)、22' ティーラテープ・ウィノータイ(タイ代表)、54' 大久保 嘉人(日本代表)、66' 中澤 佑二(日本代表)、91+' 巻 誠一郎(日本代表)
イングランドで調整としたか、ちょっと好調そうなタイでしたが、テクニックもないのに、守りを固めないで出てくる一昔前の日本代表みたいなチームでした。
確かに前半みたいに決定機をことごとく外すと、いい勝負になっちゃいますが、カウンター攻撃がヘボいのであまり点を取られる気はしませんでしたね。
前線からチェックしてくる分だけ、ボスニアよりは歯ごたえあったかな。。。
岡田ジャパンの戦術上、人数をかけて敵陣に入ってますから切れ味の鋭いカウンターのあるチームはちょっとイヤな感じがします。バーレーンとかオマーンとか(笑)
まぁ、やろうとしているラグビー戦術の片鱗は見れたし、クジ運もよく、初戦としては最高の結果に。。。
日本選手が、スピードのあるパスがきてもボールを止める(トラップ)能力が上がったかっていうのが印象に残りました。
次は東アジア選手権ですね。韓国相手にどこまでできるか・・・
小林稔侍(1943年)
本名は小林稔侍(こばやし としじ)。和歌山県伊都郡かつらぎ町出身。和歌山県立笠田高等学校卒。俳優の小林健は息子、女優の小林千晴は娘。
第10期東映ニューフェイスに合格し、1965年『地獄の波止場』で映画デビュー。ピラニア軍団に属し、アクション映画やアクションドラマ(仁侠映画や刑事ドラマ)で悪役を数多く演じていた。セリフがほとんど無い端役を長らく続けていたが、高倉健の脇をがっちり固める役どころが多く、1980年代にTVドラマで少しずつ頭角を現す。寡黙な渋い演技から、軽いノリの役まで幅広くこなす演技派俳優。1993年から数年にわたり男性タレント好感度ランキングで上位にランキングされるなど、最近はもっぱら温和なイメージが定着した。2000年、『鉄道員』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。2006年には山田洋次監督『武士の一分』で助演として出演した。
実はかなりのスケベ。かつて小林と映画・ドラマで共演した事がある明石家さんま、石橋貴明は撮影の合間に小林が共演した女優のお尻を触りまくっていた事や、素人の女の子をナンパしていた事をそれぞれ「さんまのまんま」「うたばん」で話していた事がある。ちなみにさんまは「さんまのまんま」に小林がゲスト出演した際にこの事実を話したのだが、さんまが小林のナンパの手口について話そうとしたら小林は「言っちゃダメ!まだ(その手口を)使ってるんだから!」と言ってしまい、さんまから説教されてしまうシーンがあった。近年でも「踊る!さんま御殿!!」で小林が息子と一緒にゲスト出演した際、さんまが小林の息子に「お父さんに注意しといて下さいね!」と忠告したシーンがあった。
某番組で、ヨーロッパで13歳ぐらいの少女掏りにひっかかった話をした際、「寄ってきたんで仲良くなろうと思った。」と話し、中居正広に「えっ、13歳ぐらいの子と仲良くなろうとしたんですか?」とつっこまれ、「女は若けりゃ若い方がいいんだよ!」と切れ気味に言い訳していた。
独特のヘアスタイルはカツラ疑惑が根強い。(生え際が不自然、若いときより髪の毛が増えている等)
以上、Wikipediaより。
他には、津島恵子(女優)、阿久悠(作詞家)、香坂みゆき(女優)。
一時期はテレビに引っ張りだこでしたが・・・
マリンさん、誕生日ですよね、おめでとうございます!
坂井泉水(1967年)
本名:蒲池 幸子(かまち さちこ)、歌手、作詞家。音楽グループZARDのボーカリスト。 ビーイングの関連会社「泉水」に所属し、同社の副社長を務めた。またZARDとしてレコード会社はビーインググループの「B-Gram RECORDS」に所属。
両親・弟妹の5人家族。20代前半まではモデルとして活動していたが、歌手になるという強い希望を持ち続け、1991年2月、ロックバンド「ZARD」のボーカルとして歌手デビューを果たす。数多くのヒット曲を生み出し、世代を超えて高い支持を集め、人気、実績とも1990年代を代表する女性シンガーとなった。
その一方、初期のころに数回テレビ・ラジオに出演した他はほとんどマスメディアに登場せず、ライブも殆どしていない。「負けないで」で大ブレイクして以降、全盛期にメディア露出やライブ活動を全くしなくなった。表舞台に登場せず音楽制作に専念するスタンスを徹底したことに加え、あえて私生活や経歴を公開しなかったたため、謎の多いミステリアスなアーティストと見られてきた。
2007年5月、再起に向けて、癌克服のための闘病生活中に、階段からの転落によると見られる脳挫傷が原因で死去。戒名は『澄響幸輝信女霊位』。
- 本名の“蒲池”苗字と出身地の“福岡県久留米市”が同じ歌手の松田聖子(蒲池法子)と従姉妹だと噂された。松田は柳川の蒲池氏の子孫で、先祖が同じとも言われたが、坂井の先祖は不明であり、二人は従姉妹でも親戚でもない。もっとも、モデルデビュー当時よりグラビア等で、"蒲池"・"福岡県久留米市出身"を強調していた[要出典]。(※蒲池氏#子孫たち参照)
- 晩年は「(積極的に)ファンの前に出たい」との思いがあったとみられ、メディア登場に前向きな姿勢を見せていたと言われている[要出典]。
- モデル時代の公式プロフィールは1969年生まれとなっていた。
- ミリオンセラー歌手となってからも、レコーディング等に行く際は電車で移動していたという[11]。
- 看板曲とも言える「負けないで」は文部科学省認定の音楽の教科書にも掲載されたが、作詞を担当した曲を数えると2曲掲載されている。(もう1曲は「翼を広げて」:DEEN)
- アメリカ造幣局発行の1ドル紙幣に記念紙幣として肖像画が掲載されたことがある。なお、この紙幣はアメリカ国内では合法的に使用可能なものである。
- モデル時代の関連商品は、高額で取引されている。特に写真集「NOCTURNE」は定価1,800円だったが、ZARDの成功後は中古市場で10万円を下回ることがない高額品となる。坂井の死後、さらに高騰した。また、音楽葬での無料配布物までもが高額で取引された。
- 嫌煙家でアルコール類も好まず、健康管理には気を使っていた[12]。ただし、「新しいドア?冬のひまわり?」がサッポロビール、「もっと近くで君の横顔見ていたい」「今日はゆっくり話そう」が、月桂冠のCMソングに起用されていた。
- 生前、歌手デビュー以前の経歴は、一部のアングラ雑誌メディアを除いて世間一般的に発表・報道されなかったが、死後、新聞・テレビのニュース番組でも報じられ、事務所の公式ブックにも記載されるようになった。
- ファンクラブ会報に記されていた「皆さんお元気ですか? 味わい深い日々を送ってくださいね」が、ファンに向けて発せられた最後のメッセージとなった[13]。
- 2007年9月、東京と大阪で追悼ライブが開催されたが応募者は殺到し、急遽座席数を拡張する事態となった(拡張は館外観覧分の自由席で指定席は発売日に即完売)。
以上、Wikipediaより。
他には、やなせたかし(漫画家)、石塚英彦(ホンジャマカ)。
う~ん、亡くなった後に紅白初出場とは・・・
森脇健児(1967年)
大阪府枚方市御殿山出身のタレント。本名同じ。洛南高等学校、桃山学院大学社会学部卒。血液型AB。所属事務所は松竹芸能。
若井はやとに弟子入りし松竹芸能の所属となり、1988年から山田雅人とのコンビで『ざまぁKANKAN!』をはじめとする関西ローカルの番組に出演し、関西圏で絶大な人気を博する。その後、東京に進出し、バラエティ番組の司会やテレビドラマの俳優等を務めた。が、数年で仕事が激減し関西にもどるも、芸の伸び悩みや若手の台頭等で苦境に立たされる。
現在は、京都限定のローカルタレントとして、体を張った企画に力を入れている。 『SMAP×SMAP』(『夢がMORIMORI』の人気企画「キックベース」と「音松くん」の復刻版でSMAPと再会するも絡みは乏しかった)、『爆笑ヒットパレード』や『オールスター感謝祭』(KBS京都のラジオ番組を欠席した上で参加したこともある。当時、「京都一筋で頑張っていく」と広言していたため、後輩芸人や周囲から軽く非難を浴びる。)等の番組に単発のゲストとして稀に全国区に出演することもある。
エピソード
- 京都の高校陸上競技史上に名を残す洛南高校「森脇三兄弟」の次男で、インターハイにも短距離選手として出場し、当時の高校生記録をマークした。そのため、芸能界屈指の韋駄天として知られ、特にオールスター感謝祭の番組内で行われるマラソン競技では上位常連である等、距離不問の俊足ランナーぶりを披露している。ラジオ番組中の本人談によると、洛南高等学校陸上競技部OB会副会長を務めているという。
- 桃山学院大学に在学中、『ざまぁKANKAN!』等の出演に忙殺され、勉学に支障をきたすようになり、留年を繰り返し、大学の規定により7年以内に卒業要件を満たせなければ除籍処分とされるところを、常勤教授陣の計らいでなんとか卒業させてもらう。1995年、フェザー級プロボクシングライセンス取得。
- 2003年9月、『マネーの虎』(日本テレビ系)に初の現役芸能人志願者として登場。京都の町家を改装して劇場を開きたいとして1811万円の出資を希望したが、「経営者ではなく、プロデューサーになりたい」というスタンスと計画の甘さがネックとなり、本人による涙ながらのアピールと東京進出以来の友人である吉田栄作による必死のフォローも空しく、パトロン候補者である『虎』達からの屈辱的な非難に耐え切れず号泣した挙句、結局、ノーマネーに終わった。なお、この件には憤懣やる方ない様子で、後日、ABCラジオの番組中で『マネーの虎』に関する不満や裏話をぶちまけて周囲を唖然とさせる。
- 熱烈な福岡ソフトバンクホークス(南海ホークス時代からの)ファンであり、オールスター感謝祭では毎回、ダイエー時代のジャンパーやソフトバンクのユニフォームなどを着て出演している。
- かつて育毛剤のCMに出演していたことから、「ハゲは一気に来る」を一貫した持論としている。『めちゃイケ』のお台場フレンドパーク(後に、岡村隆史は、髪の毛の薄い「ハゲ能人」を集めていたこの回のお台場フレンドパークを「ハゲフレンドパーク」と呼んでいた)に出演した際にも同様の発言をしていた。
- たまに全国区に出演すると、「俺と共演した奴は人気出る。俺の人気を吸うからな!」とか「仕事ないから朝早く気合入れて来たで!」「1年の3分の2は走る仕事や!」などと、自虐的なブラックユーモアを繰り出し、周囲の雰囲気を凍りつかせるようになる。
- 大の犬好きであると自認する。(2007・3・25放送分らくらぶR)また、鉄道に関する造詣が深く、特に、京阪電車(自身が利用経験のある沿線限定)に強い思い入れがあるという。(ざまぁKAN KAN!、2007・3・25放送分らくらぶR)
- 全盛期にCDをアルバム・シングル共に2枚ずつ出しているが、当の本人は歌唱を極端に苦手としており、これらは当時の人気と勢いに便乗して売り出されたキャラクターグッズの一種であると考えられる。そのときTBSの番組で「20位以内に入らなかったら、嫁さんの顔を全国に晒す」と公約したが、妻の猛反対により結局20位以内も公約も果たせず番組内で顰蹙(ひんしゅく)を買う。また、本人出演の番組では度々「森脇健児のCDを聴いて、音がいくつ外れているかを数える」などといったイジリネタが飛び出す。
以上、Wikipediaより。
他には、西郷輝彦(歌手)、後藤次利(作曲家)、大地真央(女優)、竹内都子(ピンクの電話)、長州小力(お笑い芸人)。
モリモリチームの時が全盛期だったでしょうか?
小泉今日子(1966年)
歌手、女優。 所属事務所はバーニングプロダクション。血液型O型。愛称:キョンキョン、キョンちゃん。
神奈川県厚木市出身。厚木市立三田小学校卒業、厚木市立睦合中学校卒業、神奈川県立津久井高等学校中退(編入)→明治大学付属中野高等学校中退。
- 日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」出身。
- 1982年3月21日に「私の16才」でアイドル歌手としてデビュー。
- 1985年発売の「なんてったってアイドル」は、それ以前のアイドルでは無かったことであるが、自らアイドルと称していることで話題になった。KYON2(キョンキョン)の愛称で知られる。
- 1989年、自身のアルバム「KOIZUMI IN THE HOUSE」で、当時まだあまりメジャー扱いされていなかったハウスミュージックを取り入れたことで話題を呼ぶ。
- WOWOWドラマWで放送された「センセイの鞄」により2003年度文化庁芸術選奨・新人賞を女優として受賞した。
- 恋愛・スキャンダルはかなりあったというが、結婚・離婚は各一回だけである。1995年2月22日、俳優・永瀬正敏と結婚したが、2004年の同日に離婚。2006年公開の映画『さくらん』では、離婚後での初共演を果たす。
- 2005年7月よりテレビ朝日系列で放送されているテレビアニメ「あたしンち」のオープニングテーマ曲が、「あたしンちの唄」に変更された。はじめクレジットタイトルには歌手名は「あたし仮面(仮)」と記され正体が隠されていたが、同年8月27日の同番組の放送で正体が小泉と発表された。
- デビューよりバーニングプロダクション所属だが、グループ事務所を含め他事務所からの移籍が多い同社のタレントで珍しい生え抜きタレント。
[編集] エピソード
- デビュー2年目、所属事務所の方針に嫌気が差し、突然、無断で髪を刈り上げに。また自身を「小泉」と苗字で称したことから、「キョンキョン」というニックネームと並行して、初めて苗字で呼ばれるアイドルの先駆者となった。
- アンアンに連載していたショートエッセイ『パンダのアンアン』中での自己申告によると身長は154cm。このためアイドル時代は常にハイヒールを履かされており、転ばないようにいつも前のめりに踏ん張っていたのでふくらはぎに立派な筋肉がついてしまった、と同エッセイにて告白している。
- アイドル時代における衣装の奇抜さも有名であり、中には自らがデザインをして製作した衣装や、スタイリストをつけず独自の判断で衣装を選ぶことも多い。ファッションのことについて厳しい視点を持っていた芳村真理も「自分をちゃんと主張しているから素晴らしい」と彼女のファッションセンスにお墨付きを与えたほど(余談となるが小泉とは盟友に当たる同期の中森明菜も芳村から同様のお墨付きを与えられている)で、芳村司会の『夜のヒットスタジオ』出演時には他の歌番組とは異なる特注の奇抜な衣装を身に着けて歌を披露することが多かった。
- 藤井フミヤと交際中にはフミヤと全く同じカーリーヘアにするなどかなり恋愛にのめりこみやすい一面が垣間見られた。この交際が報道された後は外に出るときはカバンの中に隠れて会いに行っていたとラジオで発言している。さらにその直後にフミヤの実弟藤井尚之と交際するなど、奔放なことでも知られる。
- 女性誌の対談で永瀬正敏と知り合い後に結婚したが、この対談は永瀬のファンだった小泉の指名だった。この時の対談で一番意気投合したのが、お互い子供が嫌い、と言う事だった。小泉はアイドル絶頂期の時から、自身のラジオ番組などで「子供が嫌い、子供は恐い」と公言していた。それまでのアイドルは、そのイメージを保つ事が鉄則だったが、小泉は「なんてったってアイドル」で、アイドルである事を楽しむ、あるいは遊ぶ、新時代のアイドルの形を創り出した。「ザ・ベストテン」で小泉が愛読書として紹介した吉本ばななが、一夜にしてベストセラー作家になった。
- 全盛期に写真集において全裸で魚拓ならぬ人拓を披露したこともあったが永瀬正敏との結婚の際には入浴中の半裸写真などを含むプライベート写真展を開催。ケチャップで2人の名前が書かれたオムライスの写真が話題を呼んだが、これはスタッフがパーティで用意したもので、後日料理は全くできないことをテレビ番組で公言している。
- 1980年代後半から1990年代前半にかけて、『小泉をCMで起用した商品は売れる』という法則があった。雑誌の記事などでは「売上10%増」とも書かれていたが、実際に、当時の小泉今日子をCMで起用した商品は、起用する前と後では売り上げに大きく差が出たと言われ、一説には「初代CM女王」とも。
- 女性歌手の中では松田聖子、浜崎あゆみらを抑えてオリコンベスト10入りの曲数では歴代一位であり、いかに人気が長期間継続したかが伺われる。
- 学生時代はヤンチャしていたといい、著書で修学旅行先で他校生徒とトラブルになった云々の記述があるほか、とんねるずのみなさんのおかげです、では石橋貴明から「厚木の悪育ちの小泉」とからかわれていた。
- TBSテレビで2003年10月8日に放送された「ディスカバ!99」では小泉が爽やかにタバコを吸う映像が放送され、その喫煙ポーズの美しさは巷で評判となったが、映画・ドラマでの役柄以外での場で女優・歌手がタバコを吸いながらインタビューなどを受けることはイメージ戦略上の問題もあるが、かなり稀なことであるため、一部視聴者の中では番組の時間帯や、彼女が持っている大衆に対する影響度などもあり批判もあった。
- 2005年1月に読売新聞の読書委員に就任し、日曜読書面で書評を執筆。豊かな文才を発揮している。
- 顎関節症を持病に持つと自身のホームページで言っている。
- 空中庭園以来3年ぶりの映画単独主演作グーグーだって猫であるの出演の動機は原作者の大島弓子のファンだからである。
- 上条英男の著書によれば目の整形暦があるという。
以上、Wikipediaより。
他には、富田耕生(声優)、山下達郎(シンガーソングライター)、喜多郎(ミュージシャン)、時任三郎(俳優)、佐々木蔵之介(俳優)。
ちなみに、喜多郎と、きたろうは別人です(笑)
柳原可奈子(1986年)
お笑い芸人、タレント。太田プロダクション所属。本名、同じ。東京都中野区出身で在住。血液型B型。
- 幼児期にモデルとして雑誌デビュー。
- 東京都立小平高等学校普通科外国語コース卒業。この頃からアマチュアのライブなどに出演していた。
- 東放学園専門学校東京アナウンス学院お笑いタレント科(現・芸能バラエティ科)卒業後、太田プロダクション所属となる。
- 2007年に入り10代の女性をターゲットにしたキャラが注目され始め、TV番組での露出が増えるようになる。
- 尊敬する芸人は友近、青木さやか。仲のいい友人はにしおかすみこ。本人曰く好きな男性のタイプはムーディ勝山。また同じ専門学校かつ同じ事務所である土田晃之からとてもかわいがられている。「笑っていいとも」初出場の時のテレフォンショッキングで柳原を紹介したのは土田。
- 小学校・中学校の頃の成績は良かったが、体育の成績は泳げなかったためいつも悪かった。
- ピアノ、公文、塾などいろいろ習っていたがひとつも進歩してなかったという。
- 赤ちゃんの頃から赤ちゃんモデルとして芸能界で活動。ちなみに生まれたときの体重は4,400gと大型だった。
- 特技はインターネット、トロンボーン、中国語。 趣味は読書、アイドルのおっかけ(モーニング娘。)。
- 公式プロフィールのサイズは身長は153cm、体重63kgとあるが、これは太田プロ所属時(18歳当時)のもの。現在(2007年7月13日)は体重72kg、体脂肪率48%と自ら明かしている。又、体重は「体重のためにネタのキレが悪くなった。65kgがベスト」とのことである(2007年7月13日『ごきげんよう』出演時の発言)。体脂肪率の数値は調子のいいときは50%になることもあるという。血液型B型。視力は0.05(2006年3月・公式ブログより)。また、『美しき青木・ド・ナウ』の番組内で、「バストはあるのに、オッパイは全然なくて、奇跡の体」とコメントしている。本人曰くAカップであるという。
- 「家では全裸で過ごしている」、「Tバックを穿いている」や、太田プロの杉本彩などセックスアピールが旺盛である。
- めちゃイケのやべっち寿司に出演した際、矢部から「痩せたらカワイイ」と言われるが、本人曰くこれまでの人生でスリムだったことは全くないらしい。(そのことがかいけつゾロリでネタにされた)
- ネネコという犬(シーズー)を飼っている。愛称は「ネネちゃん」。
- 楽屋に置いてあるクッキーやチョコレートをパクつくのがクセとなってしまっており、マネージャー氏から"オヤツ禁止令"を出されている。その代わり出演がハネると「小分けされたクッキーやチョコレートを、動物の餌付けのようにマネージャー氏からもらえる」とのことである。
- 事務所の先輩であるマシンガンズの滝沢が書いているblogによると「ヤクザに惚れることが多い」とのこと。太田プロの若手芸人ライブでは、モーニング娘。のザ☆ピ?ス!をマリンルックで熱唱したが、「♪好きな人がヤクザだった ピ?ス」と替え歌のネタにしていた。
- 普段の1人称は「あっし」。
- 酒を飲むといきなり大泣きする。大泣きするときは「お母さん、お父さん産んでくれてありがとう」などを思って泣くという。
- ウェブログはW52SHを使って更新していることが多い。
- 総武線西船橋駅周辺のギャルのものまねをするが、西船橋駅自体は、今まで1度しか行ってなく、船橋ららぽーとに至っては行ったことがないと言う。また、渋谷のショップ店員のものまねもするが、渋谷自体は行っているらしいが、買い物はもっぱら地元の中野ブロードウェイで済ませるという。
- ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円SP第6回(2007年9月28日 21:00-22:54)にて、見事100万円を獲得した。
- 喫煙者である。公式ブログ内でタバコ片手の写真が公開されている。
- ブレイクしてからどんどん体重が増加しており、周りの芸人にその事を突っ込まれることも多い。
- ギャル曽根との共演がなにかと多い。また、ギャル曽根とは同学年である。さらにギャル曽根とは2007年に入ってからテレビの出演が激増しているという点でも共通性がある。
- 2ちゃんねるをやっていると公言しておりかつてはブログでも2ちゃん語を多用していた。
- アサヒ芸能、女性自身に創価学会の信者と報じられたが事務所は否定している。
- 愛車はトヨタ・クラウン
ネタ
- 主にコント。「渋谷109カリスマアパレル系ショップの店員」「総武線西船橋駅近辺の女子高生」「FMラジオDJのRICO」「女子大生アルバイトのマミ」など。カフェなど女子高生達があつまる場所に足しげく通い、女子高生の面白い会話をノートや携帯に直接書きとめ、ネタ作りをしている。
- また、「渋谷109のカリスマアパレル系ショップの店員」もしくは「総武線の女子高生」のキャラはバラエティ番組でも使用している。
- たけしの誰でもピカソ(テレビ東京系)にてネタ自体の数は少なく、本人がテレビで披露できるような完成度のネタは数えるほどしかないと語っている。しかし、ビートたけしはネタひとつひとつの完成度が高いため何度見ても笑えると評価しており、本人の目標としている友近からは初めて同じようなタイプの芸人が現れたと語っている。[要出典]
ネタとして用いる言葉
- 「いらっしゃいませ? どっぅぞ?ごら?んくださ?い」
- 「かしこまり?」
- 「気になっちゃう感じ?」
- 「がわいい?!」
- 「ウケる」
- 「マジだー(無感情で)」
- 「鬼アツいかんね」
- 「チョー○○っぽい」
逸話
- 前述の通り、高校の時からライブに出演しており、当時から雑誌「お笑いタイフーン」に掲載されるなど注目を集めていた。
- 料理は年に4、5回ぐらいしかしないらしく不得手。「愛のエプロン」(テレビ朝日)出演時にはジャッジを務めた和田アキ子からあまりの不味さに「死ね!」と言われるほどであった。
- 一時期芸能人女子フットサルチーム「YOTSUYA CLOVERS」に所属していた。
- 女優の市川由衣は中学の同級生であった。
- ファッションモデルの榎本亜弥子は高校の同級生であった。
- 森三中の村上曰く、「かわいいデブ」「陽性のデブ」「モテるデブ」。(ココリコミラクルタイプに、柳原がゲスト出演していたとき)
- 岡村隆史に「女デッカチャン」と揶揄された事がある。
- めちゃ×2イケてるッ!の只今参上 色とり忍者のコーナーで、白い忍者の衣装を着た際「給食のおばさん」といわれ、かなり凹んでいた。
- 笑っていいとも!(2007年8月9日)に出演し、2006年のお笑いとしてのギャラが10万円だったと明かしている。当時のライブの出演料は700円だった。なお、2007年10月から火曜レギュラー出演が決定した。
- 今まで、わかってちょーだい!のルックちゃん1号だった為、出演していなかったラジかるッに、2007年10月よりレギュラー出演することになった。
- 2007年3月まで試食販売のバイトでスーパーを60店舗回った。全ての店舗で完売するので逆に店舗から指名がかかり、都内だけでなく千葉や神奈川まで遠征していた。その手法は「美味しいですよ?」と自分で食べていた。
- 愛のエプロンの地方ロケで前説を急遽柳原が行うことになり普通の若手なら動揺するところを、全く動揺せず100点満点の笑いをとってきたことから青木さやかからロンドンハーツ収録中に褒められた。そのとき感極まって号泣してしまう。しかしなぜかそのすぐ横に居るにしおかすみこがもらい泣きしてしまい、その後、にしおかのキャラが崩壊してしまったために番組ラテ欄に柳原号泣と書かれなかった。
- 伊集院光を「お兄ちゃん」と言ったことがある。
- 岐阜県出身の熊田曜子のことをロンドンハーツで、「北関東のギャル」と言った。
以上、Wikipediaより。
他には、烏丸せつこ(女優)、川合俊一(タレント)、有田哲平(くりぃむしちゅー )、吉岡美穂(タレント)。
大食いキャラかと思ってましたが・・・(笑)
代表の弟たちは悲喜こもごも。。。
U―23代表、グアテマラなどと3試合 (1月31日 18:36)
もう、ノルマを達成しちゃったのであまり興味なし(笑)
舐められたっていうハナシですな。。
U―17日本は1分け4敗で終了 (1月31日 16:46)
今回は、もしかして弱小かぁ?
まぁ、伸びる年代だからこれから期待しましょう。。。
日本、2年ぶり優勝…U―19カタール国際 (1月31日 13:01)
minkyoさんの記事を見て興味を持ったんですが、なぜ、わざわざ(笑)自分とこでも書いたかと言うと・・・
ハットトリックの山崎クンってジュビロだったんですね。。。
しかも、他の試合を見てみると、
月日 | 曜 | 開始時間 | スコア | 大会名 | 対戦相手 | 開催地 | 得点者 | メンバー | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
現地 | 日本 | ||||||||
01/21 | 月 | 18:30 | 24:30 | ○3-0 | 国際親善トーナメント | ![]() |
カタール | 山本、香川、比嘉 | メンバー |
01/23 | 水 | 18:30 | 24:30 | ○4-2 | 国際親善トーナメント | ![]() |
カタール | 山崎、山本2、香川 | メンバー |
01/25 | 金 | 17:30 | 23:30 | ●0-1 | 国際親善トーナメント | ![]() |
カタール | メンバー | |
01/28 | 月 | 16:00 | 22:00 | ○2-1 | 国際親善トーナメント 準決勝 | ![]() |
カタール | 浦田、鈴木 | メンバー |
01/30 | 水 | 17:30 | 23:30 | ○6-1 | 国際親善トーナメント 決勝 | ![]() |
カタール | 山崎3、浦田、白谷、鈴木 | メンバー |
まぁ、香川くんは置いといて(笑)、目に付くのが浦田クンと山本クン。
浦田クンはDFなのでセットプレーだと思うんだけど、山本クンはMF。所属は・・・ジュビロユースでした(爆)
あぁ、ファンサカで控えメンバー見ても、知らない若手ばかりだと思ったら、使えそうな選手が結構いるんだ!
よく考えると、ジュビロって生え抜きのメジャーどころっていないんですよね。。。
ヤンツーさんも戻ってきたし、数年後は楽しみかも。
浅尾美和(1986年)
プロビーチバレー選手。西堀健実とペアを組み、日本ビーチバレーランキングでは、ジャパンツアー年間ランキング1位になった。
競技生活と平行してタレント活動も行い、ファッションモデルやグラビアアイドルとしても知られ、写真集やDVDなどを発売している。その容貌からビーチバレーの妖精とも呼ばれる。
芸能事務所ケイブロス所属。競技でのオフィシャル・パートナーはハーバライフ。
三重県鈴鹿市出身。兄2人、弟、妹という5人兄弟の真ん中として育つ。三重県立津商業高等学校在学中は1年時よりレフトアタッカーとしてレギュラー入り。キラキラ輝く選手になるようにという意味で「キラ」というコートネームをつけられた。在学中に2年連続春の高校バレー出場、インターハイ・国体には3年連続出場した。3年生時はキャプテンを務めた。
高校卒業後は川合俊一のスカウトを受け、ビーチバレーに転向すると同時に、川井が社長を務める芸能事務所に所属。ビーチバレーの活動費を得るためモデル業及びタレント活動を始める。
バラエティ番組への出演などで浅尾の知名度は上がり、浅尾の出場試合は観客が急増した。それに伴い、浅尾を写真撮影しようとする観客も増えた。日本ビーチバレー連盟は、「選手の写真がネット上や雑誌などへ無断掲載されるのを防止、肖像権を守る」ことを主な目的として、2007年度から試合の個人撮影を禁止した。
以上、Wikipediaより。
他には、井上聡(次長課長) 、劇団ひとり(お笑いタレント)、北川弘美(タレント)、宮地真緒(女優)。
さて、オリンピックに出られるでしょうか?
布袋寅泰(1962年)
IRc2 CORPORATION所属。身長190cm 体重74kg血液型はB型。
プロテスタント系キリスト教主義学校の新島学園高校中退。在籍した場合、その氏名等を掲載するという方針のため、「同窓会名簿」には名前が載っている。この中退というのは学校側から髪型を指摘されたことが原因によるものである。その際、教師に向けて言い放った「イエス様の方が僕より長い。」の台詞はファンの間であまりにも有名。
1981年、BOOWYのギタリストとしてデビューし、BOOWYでの活躍でギタリストとしての地位を確立する。BOOWY解散後はソロ活動の他、COMPLEX(吉川晃司とのユニット)、他ミュージシャンへの楽曲提供など幅広い活動をしている。また、レコーディングではギターだけでなく、ベース、ドラムス、キーボードも演奏する。ソロ作品の代表曲は『さらば青春の光』、『POISON』、『スリル』など。
また、海外ではHOTEI名義で、イギリス、ドイツなどでアルバムをリリースしている。イギリスのロックバンド、ジーザス・ジョーンズと親交があり、双方がライブ演奏のゲストに招いている。近年は映画やCMへの出演等、俳優としての活動も行っている。
3歳年上の歌手、山下久美子と結婚していたが、離婚。その後1歳下の女優・歌手、今井美樹と再婚して、一人娘がいる。
「最新のHOTEIが最高のHOTEI」がモットー。ポルシェ社のキャッチコピーから。現在の愛車はベントレーのアルナージT、AMGのE63T、シボレーのエクスプレスバン。
人物
幼少時代にピアノを始める。14歳の時、マーク・ボランのポスターを見て感銘を受けギターを始める。初めて買ったギターはストラトキャスタータイプで、この時の資金は母親の財布から失敬した壱万円だったという。
A-ROCK本選会アイデア賞を受賞し、17歳(高校3年時に中退後)の時上京。
1981年に氷室京介らと共に暴威(後に「BOOWY」と改名)というバンドを結成。翌1982年にリリースしたアルバム『MORAL』にてプロデビューする。バンド時代は彼自身のスタイル(『8ビート』の『カッティング』など)が確立されていった時期であるといえる。『B・BLUE』、『ONLY YOU』、『MARIONETTE』などその過程においてBOOWYの代表曲となる作品が多数生まれている。BOOWYは1987年12月24日渋谷公会堂で解散し、翌1988年4月に行われた東京ドームでのライブをもって活動に終止符を打つ。
BOOWY時代から現在に至るまで愛用されている白黒の幾何学模様のテレキャスターは市販されている数あるアーティストモデルのギターの中でも特に有名である。模様は酒を呑んで酔っ払った勢いで「あっみだくじぃ?」と口ずさみながらトイレで書いたとされる。
初期の活動と平行して、演劇型アプローチのロックバンド、AUTO-MOD(他に、高橋まこと、PERSONZの渡邉貢らが在籍)に在籍していたり、またその個性的なギタースタイルから他のアーティストのレコーディングに呼ばれる事も多く、鈴木雅之のソロデビュー曲『ガラス越しに消えた夏』をはじめ、吉川晃司・中島みゆき(後藤次利プロデュース)、『風の谷のナウシカ』サウンドトラック、山下久美子(吉田建プロデュース)などのアルバムに参加している。
BOOWYでの活動を終えて、氷室京介が1988年7月21日にソロデビューしたのに続き、半年後の同年10月にソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』をリリースし、ソロ活動を開始。藤井丈司・ホッピー神山とのコラボレーションによるギターとコンピュータの融合で歴史に残る斬新なアルバムとして注目された。イギリスにおいてシングルを発表するも注目されることはなく、同年12月に吉川晃司とCOMPLEXを結成し、シングル『BE MY BABY』でデビュー。2枚のアルバムを発表したが、音楽性の違いで吉川と対立し、1990年11月8日に行われた東京ドームでのライブをもって無期限活動休止に入る。
COMPLEX休止後は一貫してソロ活動に専念する。ミュージシャンであるだけでなく、音楽プロデューサーとして今井美樹、相川七瀬、TOKIO、藤井フミヤ、JILL(PERSONZ)や江角マキコなどのアーティストに楽曲を提供したり、『新・仁義なき戦い』や『KT』、『キル・ビル』などの映画音楽も手掛ける。また『新・仁義なき戦い』や『サムライ・フィクション』等では俳優としても活躍。その長身と強面を生かし、永瀬正敏とのコマーシャルにも出演。
1996年にはマイケル・ケイメンからのオファーでアトランタオリンピックの閉会式に出演。1994年の奈良東大寺でのイベント「AONIYOSHI」をきっかけに交流を深めたケイメンとギターとオーケストラとの融合作品『GUITAR CONCERTO』に参加したり、『THANK YOU & GOOD BYE』のプロデュースをケイメンに依頼した事もあった。
楽曲製作に関しては、作曲を優先(曲先)にする。ギターリフから作ったもの、ベースリフから作ったもの、メロディから作ったもの、リズムパターンから作ったものとバラエティに富んでいる。
以上、Wikipediaより。
他には、ボリス・エリツィン(ロシア初代大統領)、渡辺貞夫(ジャズミュージシャン)、吉村作治(考古学者)、山本譲二(歌手)、中村雅俊(俳優)、黒田アーサー(俳優)、磯野貴理(タレント)。
初めは、「ぬのぶくろ」って読みますよね。。。