———もしもしー!
———…やっぱりお前か!
———ん?あ、また誰か死んだ?
———今回はネ、父方のじーちゃん。明日お通夜。
———わははは、お前の親族ぎょうさん死ぬなー!うちの一族なんて二十年間欠員出ねぇぞ?ちょっとこっちにもターン回してほしいわ!
———…この死神くんめ…
上記、先日親友のポルトに電話をした際の会話である。
以前より、ポルトの親族が死ぬと、ちょうど良いタイミングで私から電話がかかってくるそうで、実際すでに三人だか四人だかの“犠牲者(私には何も悪気はない)”が出ている。それを反射的につい笑ってしまう私もどうかと良識者諸兄には眉を顰められそうだが、ポルトの性格を踏まえてみるに“労られる”ということの方がヤッコには憤懣やるかたないことであろう。
———父方のじーさん、っちゃア、薩摩っぽのじーさんじゃない方?そっちはこないだ死んでたよな?
———今回は水道屋のじーちゃん。
———へぇー。“洗濯屋ケンちゃん”、ってのは聞いたことがあるけれど、“水道屋じーちゃん”ってのは知らなかったなぁ。
———地味だったからな、特に話すエピソードもないくらい。
———製造は?
———大正。
———じゃあ、充分がんばったな、水道屋じーちゃん。
———そだね。
そうして我々の会話は次第に、我々が如何に冠婚葬祭等の儀礼ごとに向いておらず、またそれらの儀礼ごとを嫌っているかということに主軸が移っていって、既に“洗濯屋じーちゃん”は会話の踏み台でしかない状態となる。
———だからさ、オレは“冠婚葬祭”を『免許制』にしたら良いと思うんだよね。したっけ「おい、どこどこの誰それが死んだから明日通夜だぞ!」って言われても「そっかー、でもオレ免許持ってないから、ヨロシク言っといて!」で済むのになー、と。
———あ、それいいね。年を取ったら免許の返上させなきゃいけない制度も入れよう。うちのばーちゃんとかのために。
———お前のばーさん、何やった?
———もう呆けちゃってるからね、こないだのじーさんの通夜でお焼香食べちゃったり、焼香してる人に拍手送っちゃったりして。
———お焼香食べちゃうなんてサンコンみたいだ(笑) いやしかし、そりゃアたまらんなぁー。オレ、その場にいたら絶対笑っちゃってたわ。
———まァ、老人の車が逆走するようなもんだよ。だから、免許は返しちゃう。
我々の会話はいつもこのように生産性も目的地もないままに漂うままで、ここに「不謹慎」などという言葉を持ち込む輩の方が“フキンシン”であるというのが我々の共通認識。なんたってポルトと私は“類が呼んだ友”であるから。
———ところで、さっきから鼻スンスンしてんのは?花粉症?
———いや、風邪っぽいんだよ。
———お前…そのまま明日の通夜に行ったら、労られちゃうぞ?
———うわー、イヤだー。
———泣いてるんだと思われちゃうよ。悲しくて悲しくて…
———とてもやりきれない、と。
———そう思われちゃうから気をつけろー。
———はーい。
他にも話はあちこちに飛び回ったが(出口王仁三郎は渥美清に似ている、など)、一応上記が“洗濯屋じーちゃんの死”を受けての我々の“死生観”のようなものが現れた一コマであるように思う。
人は必ず死ぬ、そのことについての疑念はないが、それを“悼む表現”が単一ではないことだけは忘れてはならなず、事実ポルトも私も何の悪気もない。
また、残念ながらポルトも私も共に長命の家系なので、この付き合いをこの先六十年くらいは存続させながら、共に“先に逝く人”を次々にネタにして見送りたいと願うばかりである。
ホント、何の悪気もないままで。
【何の矛盾もない】
