先日、駅の改札をくぐると、眼前にやたらお洒落な爺さんが居て、スカジャンとハットとグラサンを組み合わせるという年齢の割に奇抜なファッションを見て『あゝ、都会では年寄りもお洒落なんだなあ』と思った瞬間、その爺さんの手に握られた白杖(目が見えない人のアレ)を見つけて、自分の不謹慎さにひとしきり呆れた後に『ではあのお洒落は誰の誰による誰のためのものであるか?』という疑念が追いかけてきて、少しく背筋を冷やした。この場合、弱視であるとかそういう認識のグラデーションを持ってしまうと現実の煩わしさに圧倒されて何事も判断ができないため、確かに己の中に在る不気味さに寄りかかってしまう方が楽ではある。
またつい先日も、知友とアーケードの商店街を歩いていると、道の脇に陣取った易者がスマートフォンを覗いていた。あれで自分の今日の運勢などを観ているのだとしたら良いなあ、とは思うが、さすがに確認をしたわけではない。
“世界(世の中、娑婆)”というところは実に様々な構成要素とタイミングで出来ていて、その中で我々が認識し得てかつ許容出来るものなどは限られているけれど、私の中では最近『“状況”と“状態”』という認識の処理がひとつのブームであり、これはこれでもう少し掘り下げる必要があるようにも思っている。“状況”を縦軸にして“状態”を横軸にして物事を推し量るともう少し様々なことが不快でない形で認識できるのではないでしょうかネ?
さて、そんな私の現在の“状態”を語るとすれば、痔が悪化している、という一言に尽きる。
朝、目覚めてから、夜、眠るまで、私の知覚の多くは肛門周辺を裏鬼門として配置されているようにも思う。
食事をするのも、怖い。私のお腹はところてん式で、食べたらすぐトイレにかけこんじゃう子ちゃんだから、口(この場合は鬼門)を通った“魔物”が正しく裏鬼門である肛門へと向かう。
百歩譲って、トイレに駆け込むまでは良いが、排泄後、裏鬼門の清掃に入る辺りに魔が巣食っているのだねぇ。実際トイレから出てきた私は10ラウンドTKO負けのような痛みと敗北感に満ちている。
だから、普段は考えないようなことが頭をよぎる。例えば『人間は、孤独だ』とつくづく思う。なぜなら誰も私のこの痛みを分かち合ってくれないから。結局は私は私の痔の痛みによって、今現在“私”が存在するということを証明しているのだと思う。『痔痛む、故に我在り』と言えばインテリの敵を作りそうだが。
もっと格好の良い病気にすり替えて欲しい、とも思う。見目麗しく、とは言わないが、せめて白杖を握るが如く見栄えがする形である方が望ましい。昔の侍映画じゃあないけれど、荒れ寺の軒から「一雨来るな、古傷が痛むぜ」という台詞を吐きながら腕の一つもさすっていれば少しは様になるのだが、私の痔は座るときにちょっと慎重になったり眉間にしわを寄せたりする程度で、しかも雨を感知する能力もないようだから、どうにも様にならない。
明日を恐れる訳でも生に倦んでいる訳でもないけれど、この痔が延々と悪化していく中、健康と嫌煙とダイエットばかりを尊ぶ世界など終わってしまっても構わないとさえ思う夜もある。
【The End of the World】
