先日、所用で友人に電話をした際に、身過ぎの話になり、私が彼に「オレはさ、“なりゆき”に積極的に関わっていくような生き方をしていこうかな、と考えているんだよね」と言ったところ、ヤッコから「どーゆー意味?」と尋ねられたので「例えば、酔っ払いが傍の電柱に立ち小便をしていてもいちいち咎め立てはしないけれども、その小便がちょろちょろっとこっちに流れてきたら積極的に身をかわしていく、という感じ」と説明したのに「益々意味がわからねェ」と放り出された。私としては『言い得て妙な例えだと思ったのになァ』と思ったので少々心外であった。
後日その話を私の愛する個人秘書(♀)にしたところ、彼女は笑いながら「アナタのそういうところが、なんというか、陽水的なところよねェ」と優しくフォローしてくれた。私の個人秘書は私の中の“テンサイ(天才・天災)性※若干のディスりも含む用法(ボブ・ディランの『テンサイ』とか)”の成長を暖かく見守っていてくれるので日頃からありがたく思っている。
陽水、と言えば、先だって読んだ井上陽水の本の中に、陽水が最近観た映画の中の台詞で考えさせられる部分があったというような話があった。(その本自体は’85年発行)
洋画の一コマで、男性から「最近どうだい?」と聞かれた女性が「思い通りにならないことばかりだけど、まぁまぁよ」と答えるという場面で、その女性の切り返し方に味わい深さを感じたんだと、そんなことを陽水が語っていて、なんとなく『ワカルなぁ』と思った。
実写(現実世界)でもうまい台詞を返す人というのが時々居て、私自身が口下手、というか思考と発声がよく噛み合わないのも相まって、うまい切り返しをする人のことが(胡乱な気分も含めて)彼岸の朝日を眺める如く眩しく見える。実際私などは実写の場面場面で驚いてばかりだから、ポン、とうまい切り返しに憧れはするけれど、なかなかそのような甘い場面に出くわさない。
そう考えてみると言い回しの妙とうまい切り返しというのはまたちょっと別物なのかもしれないな。
夜道で酔っ払いが女性の手を引っ張っている。
「やめてよ!離して!」
「何を嫌がるんでぇ!」
「ハナせばわかる!」
なーんて。これは小話であって、これはこれで話の妙というものを感じるけれど、これが実写(現実世界)での出来事だとしたら、この続きがちょっと怖い。
そうそう、今日読了した本(『人生で大切なことはオカルトとプロレスが教えてくれた』)の中で『日本で何故ネット・2chが流行ったのか』というようなことが語られていた。端的に内容を言ってしまえば、“呪い”というものはそもそも呪う側が先方を呪っているということが何らかの形で先方に伝わらないと成り立たないという話と、日本が古くからの“呪術大国”であったこと、その結果としてネットや2chでは大呪術合戦が行われていた(その意味で現代人は呪いへの耐性が強くなってしまったのではないか、という部分も含めて過去形)というスジであったが、なかなかイイ線をついた考察であるように思う。これはこれで論理の妙を感じる。
ところで、ここ最近で私がいろいろな意味での“妙”を感じている接続詞は「だから」というものであって、話の筋・Aの後に「だから〜」と続いてからのA’〜Zまでの論理展開にその人の持つ普遍性であるとか常識・非常識、固定概念のようなものが透けて見えるようで、その味わい深さも含めて“妙”を感じている、というような話を知人にしたところ、テキから「そんなお前が“妙”だわ!」と言われてしまって、どうにも妙な気分である。
【O Sole Mio】
