shumshu(占守島) | 戦車兵のブログ

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日本青年会議所/『SHUMSHU』

札幌短編映画祭 「札幌市民平和賞」受賞

 

制作 
 
ディレクター / 大川原亮 
 
脚本 / 沼田友 
 
キャラクターデザイン/ 橋本新、ナターリア・ラス 
 
アニメーター/森下祐介、橋本新、野中晶史、キムハケン、他 
 

日本軍のシーンで旧軍ではなく、自衛隊の君が代や消灯ラッパ、栄誉礼が吹奏されているのは・・・・・・・・。

 

 

占守島は、千島列島北東端の島。

 

ロシア名はシュムシュ島

 

サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定である。

 

 

しかし、ロシアが実効支配している。

 

現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。

 

また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。

 

 

高台にある四嶺山(標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。

 

現在では、戦車、砲台、戦闘機、飛行場、格納庫、トーチカなどの残骸や廃墟が残る。

 

また、ロシアは小さいながらも軍事施設を設置している。

 

1855年(安政元年) - 日露和親条約によって、日本とロシアの間で、ロシアの領土であることが一旦は確定された。

 

しかし、この頃になると日露両国の雑居地とされていた樺太に関する問題が深刻化した。

 

1875年(明治8年)5月7日 - 樺太・千島交換条約で樺太と交換され日本領となる。

 

 

1945年(昭和20年)8月18日 - 日本がポツダム宣言の受諾を宣言した後、ソ連軍が島の北部の竹田浜に上陸。

 

日本軍と戦闘に突入。

 

占守島は千島列島で唯一のソ連軍との激戦地となった。

 

同年9月2日 - 日本政府が降伏文書に調印すると、同日に出された一般命令第1号によって、占守島はソ連占領下となった。

 

1946年(昭和21年)1月29日 - GHQ指令第677号によって日本政府の行政権が正式に停止させられる。

 

同年2月2日 - ソ連は一方的に自国領土編入を宣言。

 

1951年(昭和26年) - 日本はサンフランシスコ講和条約で同島を含む千島列島の領有権を放棄させられた。

 

同条約では、放棄させられた千島列島の帰属が定められていないので、日本政府はこの地域の帰属は未定という立場を取っている。

 

1945年8月15日(モスクワ時間8月14日)、日本のポツダム宣言受諾通告後、極東ソビエト軍総司令官は、第2極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に対し、カムチャツカ現有勢力により千島列島北部の占領を目的とする作戦の準備及び実施を命令した。

 

なお、千島列島南部は、北千島とは別にサハリン(樺太)からの部隊が攻略する計画だった。

 

ソ連軍の占守島上陸はポツダム宣言受諾に伴う日本軍の武装解除の最中、8月18日未明に開始され、急遽、武装解除を取り止めた日本軍守備隊の第91師団などと戦闘になった。

 

 

戦闘は一旦はソ連軍を上陸地点である竹田浜にまで追い落とす状態で推移していたが、日本側は第5方面軍の戦闘停止命令に従い、軍使を派遣して停戦交渉を行い、8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、完全に停戦が成立した。24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は武装解除された。

 

ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)。

 

 

 

その後、新知島までの北部千島の日本軍は、8月27日までに武装解除された。9月初旬までに全千島がソ連軍に占領された。

 

千島列島では占守島以外で戦闘はなかった。降伏後、武装解除された日本兵はシベリアへ抑留された。

 

2014年以降、サハリン州の調査団が占守島を調査。

 

日本兵およびソ連兵の遺骨を収集した。

 

2015年11月までに27柱が日本側に引き渡されているが、身元が特定できたのは1柱のみ。

 

2016年7月にも調査は行われ、遺骨や日本軍のカノン砲が収集されている。

 

2017年7月19日、民間団体士魂協力会約20人がカムチャツカ半島からヘリコプターで激戦地の四嶺山を訪れ慰霊祭を実施。現地の慰霊祭は、2005年に日本政府主催で行われてから12年ぶり開催された。