陸軍少年戦車兵学校というのが旧日本陸軍にはあった。
機甲部隊の拡充強化のため、14歳から19歳の少年が2年間かけて育成が行われた。
教職員は1,550名、延べ4,000余名の少年が学んだ。
少年戦車兵学校は静岡県富士宮市にあった。
昭和18年当時、戦車は約80両、自動車類も数十両が配備されていた。
1939年(昭和14年)12月 戦車隊の拡充強化のため、千葉県千葉市穴川にあった千葉陸軍戦車学校内において「少年戦車兵の生徒隊」が設置。
1941年(昭和16年)12月 勅令により、千葉陸軍戦車兵学校内に「少年戦車兵学校」として分離・独立。
1942年(昭和17年)7月 陸軍少年戦車兵学校新校舎完成(静岡県富士郡上井出村)、8月に静岡県富士宮市に移駐。
1945年(昭和20年)8月 全員に休暇が与えられる。10月に米軍への引き渡しが行われ、廃校。
1期 150名 昭和14/12/1入学 昭和16/7/31卒業(繰上卒業)
2期 230名 昭和15/12/1入学 昭和17/11/10卒業
3期 500名 昭和16/12/1入学 昭和18/11/10卒業
4期 600名 昭和17/12/1入学 昭和19/5/15卒業(繰上卒業)
5期 900名 昭和18/12/1入学 昭和19/11/5卒業(繰上卒業、270名) 昭和20/1/18卒業(繰上卒業、残り)
6期 700名 昭和19/6/1入学 昭和20/7/18卒業(繰上卒業、100名) 昭和20/8/17復員(残り)
7期 550名 昭和20/3/7入学 昭和20/8/17復員
特別幹部候補生 525名 昭和20/2/5入学 昭和20/8/17復員
一期生は150名募集のところに8,229名が応募があり、実に55倍の競争率であった。
少年戦車兵は若獅子、豆タンクの愛称で、空の若鷲(少年航空兵)と並び、国軍の双璧と讚えられた。
2年を年限としたが、戦況の悪化に伴い、1年から1年半での繰上卒業が多くなっていった。
また、訓練も厳しいものになり、昭和18年には生徒2名が死亡する事故が起きた。
五期生のうち270名は、フィリピン戦・沖縄戦に対応するために、最短となる11ヶ月での繰上卒業となった。
昭和19年11月に門司港を離れたが、五島列島沖・済州島沖で雷撃を受けて空母神鷹、あきつ丸、摩耶山丸などが撃沈。
多くの少年兵が、船と運命を共にしている(レイテ輸送団の悲劇、ヒ81船団の悲劇)。
なお、この270名のうち、台湾の部隊に赴任した約20名を除けば、生還者は9名のみである。
ルソン島の戦いでは、昭和20年4月17日にバギオにおいて、「戦車特攻」が行われた。
2両のうち九五式軽戦車1両には少年戦車兵3名が乗車、アメリカ軍M4中戦車に突撃・自爆している(イリサン戦車特攻、戦車の頭突き)。
動画の歌は若獅子会有志が歌っている。
かつての少年戦車兵達だ。
その若獅子会が当時私が勤務していた戦車部隊のメッカ北恵庭駐屯地にやって来たことがあった。
当時連隊に装備されていた74式戦車の前に立ちかつての少年戦車兵だった大先輩を迎えた。
その中の一人が愛おしそうに戦車を撫で「こんな戦車があったらな・・・・・」と嗚咽された姿は忘れることができない。
かつての少年戦車兵の胸中には戦死した仲間の思いがあったのだろうか?
どんなに厳しい訓練をした優れた戦車兵が居ても、敵戦車に初弾必中の一撃を与えても、その弾が跳ね返るどころか弾が砕けたりぽてっと落ちたのでは勝てない。
敵戦車の弾が我が戦車に掠っただけで鋲が衝撃で飛び戦車が吹っ飛んだのでは・・・・・。
戦車は精神力だけでは勝てぬのだ。
この少年戦車兵の歌を聴くと胸がきゅっとなる・・・・。
朝夕や演習帰りには、『少年戦車兵学校校歌』や『少年戦車兵の歌』がよく歌われたという。
「少年戦車兵の歌」
作詞 大木惇夫
作曲 仁木他喜雄
朝に仰ぐ富士が根や
御諭いたに畏みて
誓いも堅く意気高く
文武の道に鍛えなす
我等は少年戦車兵
聖戦万里行くころ
高鳴る胸や大和魂
咲きては桜凝れば鉄
百錬の勲岩を断つ
我等は少年戦車兵
一度起てば地も動け
輝く歴史戦車魂
雄叫び吼えて難に行く
烈々の血を承け継がん
我等は少年戦車兵
天津日高く照るところ
御稜威の光拝みて
戦陣の華永遠の栄え
いざ軍神に続かなん
我等は少年戦車兵
映画「富士に誓ふ」
出征した少年戦車兵および教職員のうち、600余名が戦死している。