零戦の名称は、当時の日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦の制式採用された1940年(昭和15年)は神武天皇即位紀元(略称・皇紀)2600年にあたり、その下2桁の「00」から「零式」とされた。
「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。
このうち「ぜろせん」と読むことについて「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後に一般化した」と言われることがあるが、戦時中の1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲 などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されていることから、「れいせん」「ぜろせん」どちらの呼称も誤りではない。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。
ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームが付けられた。
零戦の初陣は、1940年(昭和15年)7月15日、大陸戦線(中国戦線)にて101号作戦のため、第二連合航空隊に横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。零戦はまだ実用試験中のもので、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼けつくおそれがあった。
またGが大きくなると脚が飛び出すこと、Gがかかると20mm機銃が出なくなることがまだ未解決であった。
そのため、技術廠から飛行機部の高山捷一技術大尉、発動機部の永野治技術大尉がそれにあたり、技術者、整備員、搭乗員が一体となって解決した。
最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務だったが、会敵しなかった。
翌日にも伊藤俊隆大尉指揮のもと出撃したが会敵せず、悪天候のため出撃は翌月に延ばされた。
なお、第一回出撃時に燃料補給のため宜昌飛行場に着陸する際、1機(藤原喜平二空曹)が着陸に失敗し転覆。これが事実上最初の喪失となった。
9月12日、ようやく三度目の出撃となり、重慶上空に1時間も留まったが、これも会敵しなかった。
基地に戻ると、敵は交戦を避け、去った後に大編隊を飛ばせて日本軍機を追い払っているように見せているということが判明した。
進藤大尉はこれを逆手に取り、翌日再び出撃、ようやく敵機の大編隊と遭遇した。
相手は日本機を初撃墜した国民党空軍の精鋭である第四大隊(志航大隊、指揮官・鄭少愚少校)、および第三大隊率いるアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機34機(I-15×19、I-16×15、I-15、I-16とも初飛行が1933年で、零戦より旧式機)で、うち1機がこの直前急激な発進による故障のため帰還しており実際に戦闘に参加したのは33機である。
初陣で動揺していた日本軍とは対照的に、経験豊富だった国民党軍は奇襲で撃墜されてもすぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとしたが、やがてスピード・火力ともに優れた新鋭機の前に圧倒され次々と撃墜されていった。
この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は、味方機に損失を出さずに、機銃が故障した白根斐夫中尉以外の12機全てが一機以上を撃墜する戦果を上げた。進藤大尉はそれぞれの戦果を加味した結果、撃墜は27機と判断、マスコミはこの戦果を一斉に報じた。ただし実際の中国側記録によると、被撃墜13機、被撃破11機(うち10人戦死、負傷8人)である。
また、零戦隊は13機中3機(大木芳男二空曹、三上一禧二空曹、藤原喜平二空曹)が被弾、また一機(高塚寅一一空曹)が主脚故障のため着陸に失敗し転覆した。
この際、パイロットたちから防弾について「攻撃機にあるような防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、高山捷一技術大尉は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し、効果を発揮するべきと説明した。
大西瀧治郎はそれに対し「今の議論は技術官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った。
その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機のみで、空戦による被撃墜機は無いまま、 太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった。
マリアナ沖海戦ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)(ただし近年ではこの海戦でのVT信管の効果は疑問視されている)を配備した対空砲(VT信管使用率20%)に阻まれ大きな戦果がなく、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから1944年末以降に日本本土に襲来する新型爆撃機、ボーイングB-29の迎撃戦においては零戦の高高度性能不足で撃墜困難のため、四式戦闘機など1943年以降に登場した他の陸軍戦闘機での迎撃がほとんどであった。
1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が零戦によって編成され、それ以降も終戦まで零戦は特攻に使用された。
大型爆弾用懸吊・投下装置を追加した末期型は代用艦爆(戦爆)として、また特別攻撃隊(神風特別攻撃)にも用いられ、レイテ沖海戦や硫黄島の戦いでは空母を撃沈破するといった戦果を挙げている。
沖縄戦では、特別攻撃隊に対応してさらに強化された連合国軍の警戒網を突破するために日本陸軍側も戦術を工夫して突入を成功させ、空母を含む艦船を撃破したものの、艦隊到達前に撃墜される機も多く、アメリカ海軍やイギリス海軍、オーストラリア海軍などからなる連合国軍の艦隊を撃退するまでには至らなかった。
動画は映画「永遠の0」からのようだ。
『永遠の0』は、百田尚樹による日本の小説、またそれを原作とした漫画・映画・テレビドラマ。
映画に登場する旧日本海軍の零戦二一型の原寸大模型が制作されたほか、唯一現存するオリジナルエンジンで飛行可能な零戦からエンジン音が収録された。
制作された零戦は、撮影終了後ゆかりの地である大分県宇佐市によって買い取られ、構想中の宇佐市平和ミュージアム(仮称)に展示される。
撮影には徹底した軍事訓練と零戦搭乗経験者による指導を要し、奄美大島や鹿児島、茨城などを中心に、膨大な空撮を含む3ヶ月に渡るロケが敢行された。
山崎貴監督作品としては、初めて民放テレビ局が製作に関与していない作品となっている。
また、主人公・宮部の配役には監督が元共演者である堤真一を通してその求道的な姿勢を聞き及んでいたことがきっかけとなり、岡田准一の出演が決まった。
放送作家として『探偵!ナイトスクープ』などを手がける百田の作家デビュー作であり、執筆にあたっては第二次世界大戦で出征した著者の父親や親族が影響を与えている。
当初原稿を持ち込んだ多くの出版社には認められず、縁あって2006年にサブカルチャー系の太田出版から書き下ろしで発表された。
2009年に講談社文庫から文庫化。
その後徐々に話題を呼び、2012年10月の『オリコン“本”ランキング文庫部門』で歴代13作目のミリオンヒット作となった。
2013年8月付けで、湊かなえ著『告白』(2010年・双葉社)の254.4万部を超えて文庫部門1位を記録し、同年12月には文庫版の販売部数300万部を突破。
歴代のタイトルで300万部超えは、オリコンの書籍全部門を通し、コミック部門の『ONE PIECE』(51巻から70巻までの計20作で獲得)に続いて史上2例目となる。
2010年から2012年にかけて須本壮一による作画で漫画版が刊行され、2013年12月に映画が公開された。
2015年にはテレビドラマが放送された。2015年7月31日に映画版がノーカットで地上波初放送された。