戦車王国とも言われる国の一つがロシア、かつてのソ連である。
ロシアの戦車をロシアの動画で紹介する。
動画はロシア語なので判らないが映像は貴重な戦車の姿を写しているので必見です。
T-18は、1928年から1931年にかけて生産された、ソビエト連邦が設計した最初の戦車である。
MS-1、マリー・ソプロヴォジデニヤ・ペルヴィという別名もある。
ソ連は、対ソ干渉戦争中に白軍より捕獲した ルノー FT-17 軽戦車を、1919年10月に再生したのを手始めに、クラスノエ・ソルモヴォ(Krasnoye Sormovo)工場にて解体・研究し、1922年に FT-17 のコピーである「ルスキー・レノ」(Russki Reno、「ロシア製ルノー」の意)、別名「KS戦車」(KSはクラスノエ・ソルモヴォの頭文字)が開発され、15両が製造された。
オリジナルのFT-17との違いは、砲塔右側面に機関銃1挺が追加されていた。
1924年、軍事産業中央理事会の下に新設された戦車設計局は、「重量3 t(後に5 t)、12 km/hの速度、16 mmの装甲、37mmの戦車砲」という、新戦車の要求仕様を提示し、それに基づき、同局のウラジーミル・ザスラフスキーによって FT-17 を参考に(KS戦車の発展型として)MS-1 が設計された。
車体はフレームに装甲板をリベット留めしたセミモノコック構造で、エンジンにはモスクワの AMO 工場が生産するイタリアのフィアット15terをコピーした35馬力のトラック用エンジンが選ばれた。
乗員は2名でタンデム式に、車体前部には操縦手が、後部の砲塔には車長兼砲手兼機銃手が、配置された。
砲塔正面は上から見て135度の角度がつけられた2つの面で構成されており、主武装には、砲塔正面左面に、FT-17 にも搭載されていたフランスのピュトーSA18 37 mm戦車砲 を模倣・改良(長砲身化)したものを、副武装には、砲塔正面右面に、フェドロフM1916 6.5 mm自動小銃(ホチキス 7.62 mm機関銃という説もあり)をボールマウントに連装で架装して、採用した。
車体後部のエンジンで車体後方の起動輪を駆動する後輪駆動方式、走行装置には垂直スプリングサスペンションを採用し、ルノー FT-17 と比べて路外走行性能が大きく向上していた。
車体底面には脱出用ハッチが設けられていた。
T-16 と呼ばれる原型車両は1927年6月に試験を受け、制衝転輪を追加したり、アレクサンドル・ミクーリンによって再設計されたエンジンを横置き式に搭載するなど、小改良を加えた後、7月に T-18 として量産が決定された。
T-18 の生産は、1928年5月にレニングラード・オブホフ(Obukhov)工場(後のボルシェビク工場)で開始された。最も初期の30両は深刻な機械的問題を抱えており、ボールベアリングとキャブレターを輸入しなければならなかった。
その後も T-18 の生産は度々停止されたが、1929年には40馬力のエンジンと砲塔後部の張り出しを持った改良型が導入され、1931年までに総数960両の T-18 が生産された。
また、T-16 と T-18 は数々の実験車両のベースとなり、それらはボルシェビク工場でのテストを受けた。結果として、90馬力のエンジンを搭載する T-19、60馬力のエンジンを搭載する T-20 が開発されることになった。
ハリコフ自動車工場に新たに設立された T2K 戦車設計局(後のモロゾフ設計局)では、T-18 を元に T-24 を開発している。
1929年に満州で中ソ紛争が発生した際には、T-18 を装備した実験部隊が出動し、張学良率いる中国軍と交戦している。
最終的に、T-18は、1930年代の基準からすると、貧弱な武装と不十分な装甲であり、任務を遂行するのにふさわしくないことが実証され、1932年以降は第一線から退き、訓練用戦車として使われている。
T-18 とその派生車両は基本的に失敗作であったが、ソ連産業にとっては、戦闘車両を初めて設計するという貴重な経験になった。