【護衛艦「しらぬい」(DD120)の引渡式・自衛艦旗授与式】 | 戦車兵のブログ

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しらぬいJS Shiranui, DD-120)は、海上自衛隊の護衛艦。

 

あさひ型護衛艦 (2代)の2番艦。

 

 

 

艦名は「不知火」に由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては、旧海軍の東雲型駆逐艦「不知火」、陽炎型駆逐艦「不知火」に続き3代目にあたる。

 

 

「しらぬい」は、中期防衛力整備計画(26中期防)に基づく平成26年度計画5000トン型護衛艦1614号艦として、三菱重工業長崎造船所で2016年5月20日に起工され、2017年10月12日に命名・進水、2018年7月5日に公試開始、2019年2月27日に就役し 、第3護衛隊群第7護衛隊に編入、定係港は大湊とされた。

 

 

「しらぬい」に装備される12.7mm重機関銃M2は従来の人力操作の銃架に替えて、日本製鋼所が開発した国産RWS(リモートウェポンステーション)である「水上艦艇用機関銃架(遠隔操作型)」が2基搭載される予定である。

 

 

これは3900トン型護衛艦(30FFM)への搭載が予定されているものと同一で、官給品である機関銃本体を除いた調達価格は1基あたり2,160万円である。

 

 

旧帝国海軍の不知火は、日本海軍の陽炎型駆逐艦2番艦。

 

1939年(昭和14年)12月に竣工した。

 

日本海軍の艦船名としては1899年(明治32年)に竣工した東雲型駆逐艦「不知火」に続いて2隻目。

 

1944年10月、シブヤン海で米艦載機の空襲を受け沈没した。

 

 

駆逐艦不知火は、第18駆逐隊は1942年(昭和17年)6月23日、第七戦隊の重巡鈴谷、重巡熊野を護衛して呉に戻った。

 

同隊はアリューシャン方面を担当する第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将)に編入された。

 

28日、陽炎を除く3隻(霰、霞、不知火)は、横須賀から水上機母艦千代田と、特設運送船あるぜんちな丸に乗せた兵員の護衛をしてキスカ島に向かった。

 

 

7月5日夕、千代田とあるぜんちな丸はキスカ湾に入港した。

 

第18駆逐隊は濃霧のため予定と異なって湾外に仮投錨した。

 

米潜水艦グロウラーが第18駆逐隊を発見し、不知火と霞に魚雷各1本、霰に魚雷2本を発射し、各艦に1本ずつ命中した。

 

不知火は第一缶室に被雷して大破し、第一、第二缶室が浸水した上、後甲板も曲がって竜骨が切断され、自力航行や曳航が不可能になった。

 

霞も航行不能になり、霰は主砲で反撃したが2本目の魚雷を打ち込まれて沈没した。

 

駆逐隊の宮坂司令は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している。

 

第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の日の出の時刻を勘違いした可能性を指摘している。

 

1942年7月5日には、アッツ島沖で駆逐艦子日が米潜水艦トライトンの雷撃で撃沈された。 

 

宇垣纏連合艦隊参謀長は各艦隊の参謀長に、小型艦艇を含めて潜水艦への警戒を怠らないよう注意を促す事態となった。

 

 

不知火と霞は、キスカ湾の空襲で6月に沈没した第五艦隊の特設運送船日産丸の残骸に隠れて、応急修理を行った。

 

宮坂は7月14日に司令の任を解かれた。

 

遅れて横須賀を出発した陽炎が19日にキスカ島に到着して護衛任務を終えると、当面の作戦行動が不可能になった不知火と霞が20日付で第五艦隊附となり、陽炎は南方戦線に展開する第15駆逐隊に編入された。

 

不知火と霞の修復のため、資材と工員を乗せた駆逐艦長波が27日、キスカ島に到着した。

 

同日、霞は駆逐艦雷に曳航され、陽炎が護衛しキスカ島を出発し、最終的に舞鶴に到着した。

 

不知火はなおも曳航できず、8月2日に艦橋と一番煙突の間で船体を切断した。

 

当初は横須賀での修理を予定していたが、8月11日に舞鶴での修理に決まった。