ポーランド軍の戦闘糧食を元自衛隊員が食べてみたら! | 戦車兵のブログ

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久し振りにトッカグンの戦闘糧食シリーズ。

 

今回はポーランド軍の戦闘糧食。

 

ポーランド共和国、通称ポーランドは、国連の区分では東欧、CIAの区分では中央ヨーロッパに位置する共和制国家。

 

欧州連合 (EU)、北大西洋条約機構 (NATO) の加盟国。

 

通貨はズウォティ。

 

首都はワルシャワ。

 

第一次世界大戦後、1918年に独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。

 

 

戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活させたが、ポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であり、ソ連に従属する衛星国であった。

 

1989年に行われた自由選挙の結果、非共産党政権が成立し、現在のポーランド共和国となった。

 

 

冷戦時代は「東欧」に分類され、現在も国連は同様の分類だが、国内及び東側諸国の民主化(東欧革命)とソ連の崩壊を経て、米CIAなど一部の機関は「中欧」または「中東欧」として分類している。

 

 

ポーランド軍は・・・・・・、よく解かりません。

 

戦車はT-72M1 - 584輌、PT-91 - 232輌と東側の装備と、レオパルト2A4 - 142輌(全車両がレオパルト2PLへとアップグレードされる)、レオパルト2A5 - 105輌のドイツ戦車を装備している。

 

歴史的背景からすると・・・皮肉だね。

 

 

ポーランドの近代戦史をちょびっと紹介します。

 

ポーランド侵攻は、1939年9月1日にドイツ国、及びドイツと同盟を組む独立スロバキアが、続いて1939年9月17日にソビエト連邦がポーランド領内に侵攻したことを指す。

 

ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約、ポーランド・フランス相互援助条約)を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。

 

 

ポーランドへの侵攻作戦はソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフとドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの独ソ不可侵条約調印の9日後、すなわち1939年9月1日に開始され、同年10月6日にドイツとソ連は実質的にポーランド全域の占領を完了することとなった。

 

ポーランド分割占領は先の条約の秘密合意事項であった訳である。その暁にドイツ・ソビエト境界友好条約が結ばれた。

 

 

ヒトラーは自作自演の「ポーランド正規軍によるドイツ領のラジオ放送局への攻撃」(グライヴィッツ事件)及びドイツ系民族への迫害(そのような事実はなく、せいぜいが禁酒法の施行程度である)並びに16箇条の要求に対する無回答を口実に、ポーランドに対する北部、南部、西部の3方面から攻撃をドイツ軍に命令した。

 

ドイツ参謀本部はこの作戦に「白の場合(Fall Weiß)」という秘匿名称を付けて準備していた。

 

 

ドイツと接する長大な国境線を、薄く浅くしか防衛準備出来なかったポーランド陸軍は、開戦後すぐにドイツ軍に押されて東へと戦線を後退させられた。

 

9月中旬にワルシャワ西方のクトノ市での戦い(ブルザの戦い)に敗れると、戦局はドイツ軍に有利となり、ポーランド軍はさらに自国領の東南部へ後退を始め、ルーマニアとソ連と国境を接するルーマニア橋頭堡に防衛陣地を固持し、イギリスやフランスの同盟国によるドイツ攻撃と救援を待ち持久戦に入る計画であった。

 

 

1939年9月17日、ドイツ軍の侵攻に呼応し、ソ連赤軍がポーランド東部へ侵攻を開始した。

 

 

東ヨーロッパをドイツとソ連が分割支配する独ソ不可侵条約の「秘密議定書」を、ソ連が忠実に実行した訳である。

 

ソ連によるポーランド攻撃によって、ヒトラーの軍隊はワルシャワ攻略に集中することができるようになった。

 

ソ連による侵略はポーランドにとっては予想外であった。

 

ポーランド政府は、ルーマニア橋頭堡の防衛はもはや不可能と判断し、全軍に対し中立国のルーマニアへの脱出を命令した。

 

 

10月1日までにドイツ軍とソ連軍はポーランド全域を完全に制圧した。

 

 

ポーランド政府は降伏せず、残存する陸軍および空軍の部隊と共にルーマニアとハンガリーへ脱出した。

 

脱出したポーランド軍将兵の多数は、後に西側の自由ポーランド軍に参加し、フランス、フランス委任統治領シリアを経てイギリスで闘うことになる。

 

 

 

占領下のポーランドは第二次大戦を通じて、強力な対独レジスタンス運動を展開し、また亡命ポーランド人部隊は連合国に対し多大な軍事的貢献をした。

 

 

ドイツは1941年6月22日にバルバロッサ作戦を開始し、ソ連占領下のポーランドを奪うが、1944年には反撃するソ連軍に対し、その地をまた明け渡すことになる。

 

ドイツとソ連の5ヵ年以上の占領期間にポーランドの全人口の20%が殺害され、ポーランド第二共和国は事実上消滅することになった。

 

 

ポーランド軍の死者数は66,000人、負傷者133,700人、捕虜となった者694,000人。

 

損失は戦車132両、その他の車両300台、航空機327機(そのうち戦闘機118機)、駆逐艦1隻、機雷敷設艦1隻となっている。

 

 

 

ドイツ軍とスロヴァキア軍の同盟軍の死者数はあわせて16,343人、負傷者27,280人、行方不明320人、捕虜となった者は解放されたためその数は記録されていない。

 

損失は戦車300両、その他の車両1,000台、航空機は最大で141機、機雷敷設艦1隻となっている。

 

 

ソ連の死傷者数、負傷者数は不明、捕虜となった者は解放されたためその数は記録されていない。

 

損失は戦車42両が破壊され、戦車数百両が故障で使用不能となった。

 

 

 

ポーランドの料理はまずもって家庭料理から出発した。

 

ポーランド固有の料理は少ないが、その周辺の土地と隣接している影響が大きい。

 

中世から近世のポーランド王国はポーランド人のほかに東欧系ユダヤ人・チェコ人・ハンガリー人・ドイツ人・リトアニア人・ラトビア人・ベラルーシ人・ウクライナ人・スコットランド人・アルメニア人・タタール人(リプカ・タタール人)などで構成される多民族国家だったため、周辺のあらゆる民族の食習慣を取り入れて独自の食文化を構築しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。

 

19世紀に現在のポーランド料理の原型ができたと言われている。

 

 歴史的に多くの民族からの影響があり、類似する料理は主に東欧、その他にドイツ、オーストリアとユダヤ料理となる。

 

 

 

過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を正餐とし朝食と夕食は軽く済ますのが伝統だが、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多い。

 

 

大抵のポーランド人は自分の母親の作る料理こそ世界で一番おいしいと考えているが、近年は徐々に外食の習慣も広まり、レストランで食事を取ることも多くなってきている。

 

レストランで出されるポーランド料理には田舎風やフランス料理風にしたものがある。

 

食糧配給制の共産主義時代に非共産主義国の様な外食文化はまったくと言ってよいほどに存在せず、せいぜい労働者が行く大衆食堂やパブぐらいで、夜間は照明が直ぐ強制的に落ちてしまうので外食産業のつけ入る暇がなかった。

 

 

EU加盟後、西洋文化の流入と西欧投資により外食産業がゆっくりと発達して、夜間急に照明が落ちるということはなくなった。

 

しかし今も家庭料理が中心の食文化で、EU諸外国と比べるとレストラン数は少なく、外食で贅沢をする文化圏ではない。

 

 

ポーランドには、肉料理を中心に長時間煮込む料理が多い。

 

中世の昔、ポーランド王国ではアルメニア人商人による東方陸上交易により当時としては他のヨーロッパ諸国に比べてコショウ(ピェプシュ pieprz)が非常に安く手に入った。

 

 

そのため肉料理にはコショウが使われている。

 

ポーランド料理でハーブは、基本の4種類(ディル、マジョラム、クミンシード、ケシの実)が主に使用される。

 

寒冷地方特有の脂肪分が高く、味は淡白だが高塩分の料理となる。

 

 

ジャガイモは、主食の位置を占めている。

 

またライ麦の栽培は寒冷な気候に適していることから、ライ麦粉と小麦粉を混ぜて使った、香りと少々の酸味があるパンがあり、よく食べられる。

 

精白した小麦粉で作る白パン(ブウカ bułka)も多彩であるが、フレプほど頻繁には食べられていない。

 

ソバの実(カーシャ・グリチャナ)や米を茹でたもの、ジャガイモのダンプリング/団子(ピズィ pyzy)も食べられる。

 

 

ポーランド人はゆで卵を食事に多用し、スープ(ズッパ zupa)やサラダ(サワトカ sałatka)の具などとして、またその他のメニューにも付け合わせとして頻繁に登場する。

 

ゆで卵は復活祭の正餐には絶対に欠かせない。

 

 

またポーランドの人々は伝統的に乳製品を非常に好み、独特の製法でさまざまなチーズを作るが、古くは7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡が現在のポーランドで発見されている。