台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 | 戦車兵のブログ

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終戦後、支那大陸から日本軍人の早期復員のため尽力してくれた蒋介石に恩を感じた現地の最高指揮官であった根本博中将は、戦後台湾に追い詰められた蒋介石率いる国民党軍へ身を投じ支那共産党から台湾を守るため尽力した。

 

 

家族には「釣りに行ってくる」と出かけ台湾へ向かった。

 

数年後台湾から帰国したときに手に釣竿を持って帰ってきたという。

 

 

根本 博(1891年6月6日 - 1966年5月24日、中国名:林保源)は、日本の陸軍軍人及び中華民国の陸軍軍人。

 

最終階級は共に陸軍中将。

 

栄典は勲一等・功三級。

 

陸士23期。陸大34期。

 

 

終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。

 

 

復員後の1949年には、中華民国の統治下にあった台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮し、中共政府の中国人民解放軍を撃破。

 

中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となった。

 

根本博は青年将校時代、聯隊長を北海道の旭川歩兵第二十七聯隊で過ごした。

 

北海道とも縁の深い軍人である。

 

 

 

1944年(昭和19年)11月、駐蒙軍司令官に就任。

 

 

翌1945年(昭和20年)8月のソ連軍軍の満州侵攻は、8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域の日本人住民4万人の命が危機に晒されていた。

 

 

ソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した。

 

 

途中幾度と停戦交渉を試みるが攻撃を止まないソ連軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソビエト軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた。

 

更に八路軍(人民解放軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。

 

 

8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソビエト軍が戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の部隊が27日に万里の長城へ帰着した。

 

出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。

 

 

一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。

 

その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力した。

 

 

引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。

 

 

一方の満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。

 

これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。

 

また山西省では一部の日本軍と在留邦人が残留し戦後問題となった。

 

 

尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて8月19日、北支那方面軍司令官を兼任する。

 

 

 

1946年(昭和21年)8月、根本は最高責任者として、在留日本人の内地帰還と北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ、最後の船で帰国した。

 

 

終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いたが、蒋介石率いる中華民国側は日本軍の引き揚げに協力的で、本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てた。

 

日本軍の降伏調印式と武装解除に中国側は数名の将官が来ただけという珍事もあった。

 

 

ソ連軍の占領下になった満州や、山西省でのケースを除くと、日本側は最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げは10ヶ月で完了した。

 

 

復員後、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅へ戻る。

 

中国情勢における国民党の敗北が決定的となり、1949年(昭和24年)1月に蒋介石が総統を辞任すると、蒋介石に対する恩義(邦人4万人と35万将兵の帰還、国体護持)から、根本は私財を売却して渡航費用を工面しようとする。

 

そこに、元上海の貿易商であった明石元長及び「東亜修好会」からの要請があり、密航を決意する。

 

 

同年6月26日、家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から台湾へ密航。

 

7月10日に基隆に到着するが、密航者として投獄される。

 

しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍上層部(彭孟緝中将、鈕先銘中将)に伝わるや否や待遇が一変し、8月1日台北へ移動する。

 

北投温泉での静養を経て、8月中旬、湯恩伯の仲介で蒋介石と面会する。

 

同時期8月5日にアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明しており、孤立無援の状態にあった蒋介石は根本の協力を受け入れた。

 

 

根本らは8月18日に台湾から厦門へ渡る。

 

中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。

 

湯恩伯は根本を「顧問閣下」と呼び礼遇した。

 

根本は湯恩伯に対し、厦門を放棄し、金門島を拠点とすることを提案する。

 

これを基に、防衛計画が立案され根本は直接指導に当たった。

 

同年10月1日、北京では中国共産党による中華人民共和国が成立。

 

ほどなく国府軍は厦門を失陥。金門島での決戦が迫る中、根本は塹壕戦の指導を行う。そして10月24日、金門島における古寧頭戦役を指揮、上陸してきた中国人民解放軍を破り、同島を死守した。

 

 

10月30日、湯恩伯は「林保源」を含む部下たちとともに、台北に凱旋する。

 

根本らの帰国後も、この島を巡って激戦(金門砲戦)が展開されたが、台湾側は人民解放軍の攻撃を防ぎ、現在に至る台湾の存立が確定した。

 

 

その後、根本の帰国に先立ち、蒋介石は感謝の品として、イギリス王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を根本に渡している。

 

本来一対であるべき花瓶の片方は今日も中正紀念堂に展示されている。

 

 

当時より根本の渡台は台湾でも極秘であり、その後の台湾(中華民国)における政治情勢(国民党政府(=外省人)による台湾統治の正当化)もあって、根本ら日本人の協力は現地でも忘れ去られていた。

 

また、古寧頭戦役そのものの歴史的意義の認知も低かった。

 

2009年(平成21年)に行われた古寧頭戦役戦没者慰霊祭に根本の出国に尽力した明石元長の息子・明石元紹や、根本の通訳として長年行動を共にし、古寧頭の戦いにも同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が中華民国(台湾)政府に招待され、中華民国総統・馬英九(当時)と会見した。

 

彼ら日本人の出席が認められたのは、式典の1週間前だった。

 

 

また、明石元紹と吉村勝行の帰国の際、中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べた。