北部軍軍司令官として札幌で終戦を迎え、終戦後に火事場泥棒的に占守島に侵攻したソ連軍の撃破を命じた将軍として知られる樋口季一郎陸軍中将。
アッツ島玉砕時の軍司令官でもあった。
その樋口将軍のエピソードとして有名なのがハルビン特務機関長であった樋口季一郎の「人道上の問題」としてユダヤ人の受け入れを独断でしたことであった。
それは「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、イスラエル建国の功労者の名を刻む「ゴールデンブック」に記載されている。
以下NEWSポストセブンより転載
祖国を護るために身を捧げた多くの軍人たちの生き方は、我々に多くのことを語りかけてくる──。
第二次世界大戦開戦直前の1938年3月8日、旧ソ連領オトポールにユダヤ難民が押し寄せた。
ナチスの迫害を恐れ、ドイツ東部からポーランドを経て、シベリア鉄道で逃げてきたユダヤ人たちだ。
彼らは満州国への入国を希望したが、満州国は日本とドイツが1936年に結んだ「日独防共協定」を理由に入国ビザの発給を拒否。
しかし、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎は「人道上の問題」として受け入れを独断で決定した。
「ヒグチ・ルート」によって救済された難民は、現在までに明らかとなった東亜旅行社の資料によると、4370人にものぼる。
多くのユダヤ人を救った樋口季一郎と部下の安江仙弘はイスラエル建国の功労者の名を刻む「ゴールデンブック」に記載され、その名が語り継がれている。
建国70周年を迎えた今年6月には、樋口の孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏がイスラエルを初訪問した。
隆一氏は「祖父、樋口季一郎」と題した講演を行い、「ヒグチ・ルート」で難を逃れたカール・フリードマン氏の息子らと対面した。
「今回の訪問で祖父の行為はイスラエル建国にとり非常に大きな意味を持っていたと実感し、大きな感動を覚えました」(樋口名誉教授)
●取材・構成/浅野修三(HEW)
※SAPIO2018年7・8月号
(NEWSポストセブン)
樋口季一郎中将は私の祖父の直属の上官であった。
戦後、樋口中将はソ連軍により戦犯指名されたが、ユダヤ人の尽力で救われたという。
私の祖父し占守島で終戦後戦い、シベリアへ長く抑留された。
戦後、札幌護国神社境内に建立されたアッツ島の慰霊碑の慰霊祭で樋口中将を見たのが最後であったと語っていた。
アッツの玉砕は樋口中将にとってかなり悔やむものだったらしい。