軍歌「日本陸軍」 | 戦車兵のブログ

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「日本陸軍」は、大和田建樹作詞・深沢登代吉作曲で1904年(明治37年)7月に発表された軍歌である。



「日本陸軍」は1937年前後に当時の兵科に合わせた歌詞の追加が行われているが戦車はその新日本陸軍の方で登場する。




各番ごとに当時の大日本帝國陸軍の兵科を歌いこみ、1番から10番まで一連の物語となっており、曲は「四千余万」(中村秋香)の譜を流用したものとなっている。



 また、深沢登代吉は1901年に死去しているためこの「日本陸軍」が出来た時には故人だったということになる。


 輜重兵科の歌は「輜重兵の歌」(作詞作曲ともに不明)の歌が作られるまでは1937年(昭和12年)まで存在しなかったため、それまでは輜重兵に関してほぼ唯一の歌であった



大正から昭和に掛けて新たな兵種が増えたため、1937年(昭和12年)に藤田まさとが「日本陸軍」に戦車兵、機関銃兵、航空兵、通信兵等を追加した、「新日本陸軍」を発表した。



藤田版の新日本陸軍は、1番と2番に日本陸軍の「出征」と「斥候兵」を配し、3番以降の歌詞が上記の「爆撃隊」から「皇軍凱旋」まで繋がる全7番の歌詞として収録されている事が多い。



1937年(藤田版の新日本陸軍と同年)には西条八十も「日本陸軍」の歌詞に「航空兵」「高射砲兵」「鉄道隊」「電信隊」「戦車隊」「機関銃隊」「軍犬軍鳩」を追加しており、こちらも「新日本陸軍」と呼ばれている。




兵科とは、狭義には、陸軍・海軍軍人に割り当てられた職務区分のうち、主に直接的な戦闘を担当する職務区分。



広義には、直接的な戦闘を担当する戦闘職務以外の後方職務(各部と呼称されることが多い。)をも含んで用いられることや、戦闘を担当する職務以外を含めて細分化された特技職(兵種と呼称されることが多い。)を指すこともある。



そのため、単に「兵科」といっても多様な用いられ方をする。



陸上自衛隊では、戦闘を担当する職務以外を含めて、「職種」という。



大日本帝国陸軍では、当初は様々な兵科区分が置かれる。



明治7年11月8日に改定された陸軍武官表の時点では、兵科区分として次のものが置かれていた。


  1. 参謀科
  2. 要塞参謀科
  3. 憲兵科
  4. 歩兵科
  5. 騎兵科
  6. 砲兵科
  7. 工兵科
  8. 輜重兵科

そして、航空技術の進展に伴い、1925年(大正14年)に航空兵科が新設された。



もっとも、固定的な兵科区分は時代の趨勢に適合しないという判断から、1940年(昭和15年)9月15日に「兵科区分」(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵の区分)を廃止した。



但し、憲兵科のみは存続する。


これによって「兵科区分」は原則として廃止されたが、各部に対応する「兵科」は存続した。



当初は参謀科・要塞参謀科を置いていた日本陸軍であるが、明治12年10月10日の時点では、要塞参謀科はなくなっている。



また、明治19年3月9日の時点では、参謀科はなくなっている。



なお、参謀が独立した兵科区分(参謀科)に属する軍制はプロシア軍などに見られる。



屯田兵について、明治12年10月10日の時点では、屯田兵科が設けられている。



さらに、明治24年3月30日に、単なる「屯田兵科」を廃止してこれを細分化し、新たに「屯田歩兵科」、「屯田騎兵科」、「屯田砲兵科」、「屯田工兵科」を置いた。



もっとも、明治29年5月8日勅令第190号では「現ニ屯田各兵科ニアル将校並ニ准士官ハ辞令ヲ用ヰス当該兵科ノ将校並ニ准士官トス」として、屯田各兵科(屯田歩兵科、屯田騎兵科、屯田砲兵科、及び屯田工兵科。)は廃止された。



兵種とは、兵がその特技によって分類された区分である。



「陸軍兵ノ兵科部、兵種及等級表ニ関スル件」(昭和6年11月勅令第271号)などに規定がある。兵科部の下に兵種が分類され、兵種毎に対応した階級呼称は廃止された。



昭和に入り、戦車部隊の増加に対応して、歩兵から戦車兵を独立させた。



さらに、陸軍独自に船舶兵器を運用し、揚陸作戦に資するため工兵の一部であった船舶工兵・上陸工兵を独立させ、1943年(昭和18年)から船舶兵を新設した。



現在では陸上自衛隊施設科となっている



1937年(昭和12年)に、各部の階級制度の大幅な改正が行われた。



従来は「陸軍主計総監」など兵科と全く異なった階級名が用いられていたが、この改正により「陸軍主計中将」など兵科の階級名に各部の区分を付した階級名となった。



また、この改正と同時に「将校相当官」の呼称を改め「各部将校」とした。




昭和初期から大東亜戦争終結まで、出征時の壮行歌や凱旋時に必ずと言っていいほど主に1番を中心に盛んに演奏され、歩兵の本領と同じく行軍中にも盛んに歌われたと言う。



大和田は「日本陸軍」を発表した同年に、当時の大日本帝國海軍の所属艦全てを歌詞に収めた「日本海軍」も「日本陸軍」の対となる軍歌として作詞しているが、その歌詞は日本陸軍以上に長大な、全20番というものであった。



日本陸軍では、兵科部毎に定められた色を「定色」という。



歩兵 - 兵科色は血を表す緋色。


騎兵 - 兵科色は大地の植物を表す萌黄色。


砲兵 - 兵科色は火薬の煙を表す山吹色。


工兵 - 兵科色は土を表す鳶色。


輜重兵 - 兵科色は藍色。


憲兵 - 兵科色は何ものにも染まらない黒色。


航空兵 - 兵科色は大空を表す淡紺青色。


上述の兵科の定色は昭和15年の兵科廃止直前の時のもの。


各部


技術部 - 定色は山吹色(昭和15年に改正廃止された旧砲兵科の定色と同じ)。


法務部 - 定色は白色。


経理部 - 定色は銀茶色(薄紫色)。


軍楽部 - 定色は紺青色。


衛生部 - 定色は深緑色。


獣医部 - 定色は紫色。



上述の各部の定色は昭和15年以降終戦にかけてのもの。



日本陸軍



作詞 - 大和田建樹 


作曲 - 深沢登代吉



出征
天に代わりて不義を討つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還(かえ)らじと
誓う心の勇ましさ



斥候兵
或いは草に伏し隠れ
或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を
視察し帰る斥候兵
肩に懸(かか)れる一軍の
安危はいかに重からん



工兵
道なき方(かた)に道をつけ
敵の鉄道うち毀(こぼ)ち
雨と散りくる弾丸を
身に浴びながら橋かけて
我が軍渡す工兵の
功労何にか譬(たと)うべき




砲兵
鍬(くわ)取る工兵助けつつ
銃(つつ)取る歩兵助けつつ
敵を沈黙せしめたる
我が軍隊の砲弾は
放つに当たらぬ方もなく
その声天地に轟けり



歩兵(歩行)
一斉射撃の銃(つつ)先に
敵の気力を怯(ひる)ませて
鉄条網もものかはと
躍り越えたる塁上に
立てし誉れの日章旗
みな我が歩兵の働きぞ



騎兵
撃たれて逃げゆく八方の
敵を追い伏せ追い散らし
全軍残らずうち破る
騎兵の任の重ければ
我が乗る馬を子のごとく
労(いた)わる人もあるぞかし



輜重兵
砲工歩騎の兵強く
連戦連捷せしことは
百難冒(おか)して輸送する
兵糧輜重(ひょうろうしちょう)のたまものぞ
忘るな一日遅れなば
一日たゆとう兵力を



衛生兵
戦地に名誉の負傷して
収容せらるる将卒の
命と頼むは衛生隊
ひとり味方の兵のみか
敵をも隔てぬ同仁の
情けよ思えば君の恩



凱旋
内には至仁の君いまし
外には忠武の兵ありて
我が手に握りし戦捷の
誉れは正義のかちどきぞ
謝せよ国民大呼(たいこ)して
我が陸軍の勲功(いさおし)を



勝利(平和)
戦雲東におさまりて
昇る朝日と諸共に
輝く仁義の名も高く
知らるる亜細亜の日の出国(こく)
光めでたく仰がるる
時こそ来ぬれいざ励め




新日本陸軍


作詞 - 藤田まさと


※ここでは新たに追加された歌詞のみ記載する



爆撃隊
銃火一度狂う時
決死の友軍(とも)を援(たす)けつつ
銀翼連ねて堂々と
敵を微塵に撃ち拉(ひし)ぐ
鋭鋒無比の爆撃は
是皇軍の誇り也




機関銃隊
敵陣如何に堅くとも
手練(てだ)れの腕(かいな)ここにあり
見よ銃隊の行く所
山野に吠ゆる敵兵も
忽ち我に降伏す
誉れは何にか譬うべき



戦車隊
轟裂の音地を喰(は)み
砲煙正に天を衝く
修羅の巷を悠々と
突破し去りて戦捷の
基(もとい)を築く頼もしさ
時代の寵児(ちょうじ)戦車隊



電信隊
世は文明の科学戦
戦線百里に跨がれば
前衛後部の連絡は
生死に関わる大事也
死地に見えて尚足らぬ
任務は重き電信隊



皇軍凱旋
光は常に東方(ひがし)より
正義は常に我方(われら)より
戦雲此處(ここ)に治まりて
勇武の兵は今還る
いざ讃うべき皇軍の
建てし勲を大呼(たいこ)して