徳川 光圀 大日本史 | 戦車兵のブログ

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1月14日は水戸黄門様で知られる徳川光圀公の御命日元禄13年12月6日(1701年1月14日)である。


水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に定府しており、帰国は申し出によるものであった。



常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は俗に「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになった。



その第二代水戸藩主徳川光圀は「大日本史」の編纂を行ったことでも知られている。




光圀が18歳の時、『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、それまでの素行を改めて学問に精を出すようになった。



この経験により、紀伝体の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、京都の遣迎院応空宛の書簡(元禄8年10月29日付)に書いている。



没後15年後に書かれた『大日本史』の序文には、「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀伝体の史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという考えであった。


個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に与えるという、儒教の正名論に基づいたものである。



また、遣迎院応空宛の書簡には、武家に生まれたが、太平の世のため武名が立てられないので、書物を編纂すれば後世に名が残るかもしれない、とも書かれており、後世に名を残すことも目的だったようである。



明暦3年(1657年)2月、光圀は修史のための史局を設ける。1か月前の明暦の大火で小石川邸が全焼し、駒込邸の焼け残った屋舎に仮住まいする中での開設であった。



当初の史局員は4名。


林羅山門下で水戸藩に仕えていた人見卜幽、辻端亭などだった。


当時光圀はまだ藩主ではなかった上に仮住まいの中、あえて史局を開設したのには、江戸時代最大といわれる大火で多くの書籍・諸記録が失われ、親交のあった林羅山が落胆のあまり死去したことに衝撃を受けたものと思われる。




修史事業が本格的になるのは、藩主に就任した寛文期以後のことである。



光圀が藩主となった翌年の寛文2年(1662年)頃から、藩主就任に伴い修史事業が次第に本格化し、寛文8年(1668年)には史局員は20名となった。



寛文11年(1671年)、神武天皇から桓武天皇までの本紀26冊の草稿ができた。



寛文12年(1672年)春、駒込邸内にあった史局を、小石川邸内に移し、「彰考館」と名付けた。


『春秋左氏伝』序の「彰考往来」が由来である。



延宝8年(1680年)、神武天皇から後醍醐天皇までの本紀の清書が終わり、3年後の天和3年(1683年)、「新撰紀伝」と称される104巻(本紀21巻、皇后紀5巻、諸女列伝1巻、皇子伝5巻、諸子列伝1巻、列伝70巻)が完成した。



しかし、仔細を検討したところ、一応完成した「新撰紀伝」についても、重複や脱落があった。


またこの頃、既に南朝の正統性に信念を抱いていた光圀としては、少なくとも南北朝合一時の後小松天皇までは編纂したいと考えていたが、それには、史料の少ない南朝史の紀伝を新たに執筆しなくてはならない。



このため、「新撰紀伝」の修正・紀伝の追加と、南北朝史の編纂とを並行して進めていくこととなった。編纂の統一を図るとともに効率よく作業を進める目的から、史館員の長である総裁を選任することとなり、人見懋斎が初代彰考館総裁となった。



なお、同年には安積澹泊が彰考館に入る。



元禄3年(1690年)、光圀は藩主を退き、水戸藩領の西山荘に隠居するが、修史事業は続けられた。



元禄9年(1696年)、69歳となった光圀は、生存中の本紀・列伝の完成を望み、修史以外の編纂事業を縮小させ、校訂・補正作業を持ち越すように方針を変更させた。


史館員も増員され、この年5人が加わり、総勢53人となっている。



同じく元禄9年(1696年)、安積澹泊・佐々十竹・中村篁渓の三者に命じて、本紀・列伝を編纂するための詳細な書法や執筆の基準を記した「重修紀伝義例」(元禄3年に作られた「修史義例」の修正版の意)を作成させる。



翌元禄10年(1697年)、第100代後小松天皇までの本紀、「百王本紀」が完成した。なお、北朝の天皇5人は「後小松天皇紀」の初めに帯書された。


光圀は「百王本紀」の完成を大変喜ぶとともに、未完の列伝の編纂に力を注ぐために、史館員の主力を水戸城に移し、編纂を促進させた。



この後、江戸・水戸の両彰考館で編纂が進められていった。



元禄12年(1699年)の年末、皇后・皇子・皇女伝の清書が西山荘に届けられたが、この頃から、光圀は体調を崩していた。



翌元禄13年12月(1701年1月)、光圀の死の前後には、本紀67冊、后妃・皇子・皇女伝40冊、列伝5冊(神武天皇から持統天皇の代まで)、計112冊が出来上がった。



本紀は一応完成し、文武天皇以降の列伝の草稿も半分以上出来ており、『大日本史』の根本部分は光圀の生前に出来上がっていた。



延宝2年(1674年)、佐々十竹が彰考館に入り、同4年(1676年)から史館員を遠隔地に派遣しての史料調査が行われた。



史料の閲覧を許可された場合には、金銭を支払う場合の他、水戸藩の和紙・海苔・鮭を謝礼に送った。


吉野の吉水院には、秘蔵の文書を特別に旅籠まで貸した院主の計らいに対し、礼を述べる光圀の書状が残されている。



しかし、文書の秘蔵や虫損を理由に、文書の閲覧を断られることもあった。



史料調査では、訪問先の神社仏閣はもとより、通過・滞在する藩や旗本領などの協力が必要であったが、史館員の記録や書簡からすると、ほとんどの領主は派遣員を歓迎し、手厚く接待した。



史館員の派遣に幕府の許可を得ていたかは不明であるが、少なくとも黙認はしていたようであり、後の諸国漫遊譚形成の一因になったと考えられる。



  • 幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。


 


 

19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。


 


 

  • 光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。


 


 

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれた。


 

  • オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。


 

  • 鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。


 

  • 朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もある。


 

  • 当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。


 

  • 『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えた。


 

  • テレビの時代劇である『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度足を運んだ程度である。


 

  • 父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事をしなかった。


 

  • 綱吉期に大老の堀田正俊が稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたという。