今日は奇しくも帝国海軍の軍艦旗の話題と、硫黄島の星条旗の「旗」の話題となった。
映画「父親たちの星条旗」でも知られる、硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げた史上もっとも有名な報道写真の一つであるジョー・ローゼンタールによって撮影された報道写真だ。
1945年度のピューリッツァー賞の写真部門を受賞した唯一の写真となった。
写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。
後にこの写真をもとにアーリントン国立墓地近くに海兵隊戦争記念碑が造られた。
その人物が2人も別人だと今頃になって判明した。
日清戦争の「死んでも口から喇叭をはなしませんでした」の木口小平か白神源次郎かというくらい戦場の英雄は時として間違いがあるものだ。
以下産経ニュースより転載
米海兵隊は25日までに、太平洋戦争の激戦地、硫黄島の摺鉢山で1945年2月に星条旗を最初に立てたとして、公式文書に記録されていた米兵6人のうち2人が別人だったとの調査結果を発表した。
米軍は当時、摺鉢山に星条旗を立てた後、さらに大きい旗に取り換えた。
海兵隊は2回目の星条旗掲揚をしたとして記録されていた米兵のうち1人が別人だったと6月に公表。
その後、1回目の掲揚の記録が正確かどうかも調べていた。
海兵隊の発表によると、最初に星条旗を立てたとされていた米兵のうち2人は摺鉢山にいたものの、掲揚には直接関わっていなかったことが分かった。
また、6月の発表で2回目の掲揚に関わっていなかったことが判明した海軍衛生兵のジョン・ブラッドリー氏は、1回目の掲揚に関わっていたことも明らかになった。(共同)
戦略的には島を見渡せる高さ166 mの摺鉢山がもっとも重要な拠点であった。
日本軍は硫黄島防衛のため、半地下式の掩蔽壕とトーチカをつくり、それらを結ぶ地下トンネルを掘削した。
このためアメリカ軍が手榴弾や火炎放射器でトーチカ内の日本兵を倒しても、トンネルを通りまた新しい兵が入ってきて抵抗を続けるというパターンが繰り返された。
アメリカ軍は最初に摺鉢山を目標に兵力を集中し、4日間の攻防のすえ2月23日にこれを制圧した。
摺鉢山制圧後も日本軍の抵抗は終わらず、最終的に31日後に組織的な抵抗がおわり、硫黄島の「制圧」が宣言された。
ローゼンタールの「硫黄島の星条旗」は摺鉢山制圧後、2度目に行われた星条旗掲揚の様子を写したものである。
2月23日早朝、最初の星条旗掲揚が行われた。
第5海兵師団第28海兵連隊第2大隊E中隊長デイヴ・サヴァランス(Dave E. Severance)大尉はハロルド・シュリアー(Harold G. Schrier)中尉に摺鉢山の制圧を味方に知らせるため、頂上に星条旗を立てるよう命じていたのだ。
頂上付近が制圧された後で掲げられた最初の星条旗は131×71cmのもので、その模様をロイス・ロウェリー(Louis Lowery)軍曹が撮影している。
しかし、この旗は小さかったので海岸付近からは見ることができなかった。
アメリカ合衆国海兵隊公式戦史によればタトルはLST779号のそばで星条旗を見つけてジョンソンに渡し、さらにジョンソンがギャグノンにそれを渡して頂上に立てさせたという。
戦史ではジョンソンがLST779号の乗員で真珠湾の基地から星条旗を持ってきていたアラン・ウッド少尉から受け取ったとしている。
しかし沿岸警備隊歴史部によれば、ギャグノンは星条旗を探してLST758号の近くへやってきたという。
2004年に死去したロバート・レズニック(Robert Resnick)が2001年に初めて行った証言によれば、ギャグノンが星条旗を探していたのでレズニックは自分の船から星条旗を取り出し、上官のフェリックス・モレンダ大尉の許可を得た。
この旗はメア島の海軍工廠の技師メイベル・ソヴァギューが縫ったものだという。
40名の海兵隊員たちは正午ごろ頂上付近に到達、ギャグノンが後から加わった。
日本兵たちの抵抗はまだ続いていたがアメリカ軍の砲撃によってほぼ制圧されていたので頂上にたどりつくことができた。
ローゼンタールと従軍カメラマンのボブ・キャンベルおよびビル・ジェノウストの3人も頂上を目指して登っていたが、途中で最初の星条旗掲揚を撮影しておりてきたロイス・ロウェリーと出会った。
3人はいったん下りようかと思ったが、ロウェリーから頂上は写真をとるのにいい場所だと聞いたため上がっていくことにした。
海兵隊員たちは頂上に星条旗を立てていた。旗のポールとして日本軍の水道管が使われた。
ローゼンタールたちが頂上につくと海兵隊員が旗を水道管にゆわえたところであった。
ローゼンタールはすばやく高速度撮影カメラを取り出して岩の上にカメラを固定しようとした。
彼がカメラを構える前に星条旗が掲げられているのを見たローゼンタールはとっさにカメラを旗に向け、ファインダーをのぞかずにシャッターを切った。
ローゼンタールのとなりにはビル・ジェノウストがいて、30mほど離れた位置から星条旗の掲揚の様子を映像で記録していたが、ローゼンタールの写真のようなアングルでとられた映像になっている。
写真撮影後、ローゼンタールはフィルムを現像するためグアムへ送った。
グアムで現像された写真を見たAP通信のジョン・ボドキンは「これは歴史的な一枚だぞ!」と思わず叫び、即座にニューヨークのAP通信本社へ電送した。
AP通信によってアメリカの多くの新聞にこの写真がのった。
撮影から印刷までわずか18時間半というのは当時としては驚異的なスピードであった。
写真の撮影状況は当初から論議の的となった。星条旗掲揚の写真を撮影した後で、ローゼンタールは海兵隊の「E中隊」の写真を撮っている。
ポーズをとる海兵隊員たちのいわゆる「ガンホーショット」といわれる写真である。グアムへ引き上げたローゼンタールが「写真をとるとき、ポーズを取らせたのか?」と聞かれたとき、彼はてっきり「ガンホーショット」のことを言っているのかと思い、「もちろんだよ」と答えた。
これを聞いた『タイム』誌の特派員ロバート・シェロッドはニューヨークで「ローゼンタールの星条旗写真はポーズをとらせて撮ったものだ」と話した。
『タイム』誌のラジオ番組「タイム・ビューズ・ザ・ニュース」は「ローゼンタールは写真家としての名声という誘惑に負け、すでに立てられていた星条旗の前で改めてポーズをとらせた」と非難した。
このような報道によって、ローゼンタールは「やらせ写真をとった」とか「あたかも最初の星条旗掲揚のように言いふらした」などの非難を受けることになった。
なかには『ニューヨーク・タイムズ』の書評のようにローゼンタールのピューリッツァー賞を剥奪すべきだという主張まで現れた。
ローゼンタールはその後、星条旗掲揚が「やらせ」であるという批判に繰り返し反論してゆくことになる。