筑波海軍航空隊 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。


宇都宮から朝早く道が空いている内に出発する。



友人は病状も重く朝が弱いので後部座席で横になってもらい、私の計画で茨城県へ向った。



一人ラジオを聴きながら栃木県のラジオから茨城県のラジオ番組に変る。




こういうのは北海道ではないので面白いが集中して聞けないのは残念だ。





茨城県笠間市へ到着、市役所近くへ行くが当初場所がわからなくてナビで住所を入力して向う。




かなり早く来てしまった。




近くを散策する。




古い営門、慰霊碑、お立ち台など見る。




天気もよく天候に恵まれた。




ここは、映画「永遠の0」のロケ地としても有名で、待っていると結構見学者が集まってきた。




入場料が500円、地下壕見学する場合は300円プラス。





筑波海軍航空隊は、戦闘機専修搭乗員の教育を推進するため、戦闘機に搭乗するまでの実機練習を推進した。




しかし絶対国防圏策定後の昭和19年以降は防空実施部隊となった。




末期には特別攻撃隊を編成し、沖縄方面の特攻作戦に従事した。





海軍航空隊だが回りに海は見えない。



滑走路も今は道路になっており面影もない。




しかし、この筑波海軍航空隊から多くの海鷲が育ち戦場へ征った。




殉職者も出た・・・。



1934年(昭和9年) 8月15日に茨城県西茨城郡宍戸町の国立種羊場跡地に開かれた霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊をルーツとする。




すでに昭和3年ころより陸軍が所沢陸軍飛行学校の離着陸演習場として使用しており、海軍も昭和6年より使用を開始していた。




昭和7年より、霞ヶ浦航空隊の陸上練習機練習場とするための準備に入り、昭和9年に完工した。




8月15日 霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊発足。




9月1日 第26期操縦練習生が入隊。




1936年(昭和11年)   




予科練卒業生の初歩訓練開始。




1938年(昭和13年)12月15日 独立し、筑波海軍航空隊発足。第十一連合航空隊に編入。




以後、予科練・操縦訓練生の初歩練習・中間練習に従事。




1944年(昭和19年) 3月15日 練習機課程より実用機訓練課程に変更。






実用機課程は解散した大分海軍航空隊より機体・人員を継承。





練習機課程は築城飛行場に転出し、二代築城海軍航空隊を新設。




4月22日 大分より機体・人員が到着。実用機訓練に着手。




11月5日 教官・教員からなる邀撃戦闘機隊を編成。





1945年(昭和20年) 1月9日 東京にB-298機襲来。紫電5機で迎撃、戦果なし。



2月15日 零戦補充。零戦24・紫電8体制確立。



2月16日 関東に4波にわたり敵機動部隊艦載機襲来。



零戦全力・紫電半数で迎撃。9機撃墜・13機喪失。



2月17日 前日に引き続き5波にわたり敵機動部隊艦載機襲来。




零戦14機で迎撃。




第2波以降は会敵せず、第1波で2機撃墜・1機喪失。



2月20日 特別航空隊編成下令、鹿島海軍航空隊にて訓練開始。



2月25日 関東に敵機動部隊艦載機襲来。



零戦14機で迎撃。



5機撃墜・8機喪失。稼働機は9機に減少。




3月1日 第十航空艦隊新編。十一連空は隷下に入る。




3月28日 神風特別攻撃隊「筑波隊」8隊編成。




3月下旬 最後の訓練生(第42期飛行学生)の教育訓練完了。





3月30日 「天一号作戦」に参加。制空隊12機、出水飛行場に進出。



4月5日 5個筑波隊、鹿屋飛行場に進出。



4月6日 「菊水一号作戦」発動、第一筑波隊突入。



4月12日 「菊水二号作戦」発動、制空隊出撃、沖縄上空で空中戦。



4月14日 第二筑波隊突入。



4月16日 「菊水三号作戦」発動、制空隊出撃・第三筑波隊突入。



4月20日 十一連空解散、第五航空艦隊に転籍。2個筑波隊進出(最後の第八筑波隊は26日進出)




4月29日 「菊水四号作戦」発動、第四筑波隊突入。




5月5日 菊水作戦従事部隊の紫電隊を筑波空に一元化。




定数96に増強。





5月11日 「菊水六号作戦」発動、第五筑波隊突入。




5月14日 「菊水七号作戦」発動、制空隊出撃、第六筑波隊突入。




5月29日 関東にB-29襲来、残存邀撃隊で迎撃、2機撃墜。




6月10日 関東にB-29襲来、邀撃隊で迎撃。




6月22日 「菊水十号作戦」発動、第一神雷隊に第七・第八筑波隊参加。




6月28日 関東にB-29襲来、邀撃隊で迎撃。




7月8日 関東にムスタング襲来、邀撃隊で迎撃。




筑波隊は64名のうち55名が突入して壊滅した。




本土決戦を前に、九州方面にあった制空隊は峰山・美保・姫路などに分散配置され、一方の筑波残留隊は香取にも展開して本土決戦に備えているうちに終戦を迎えた。




友部飛行場の跡地は茨城県内の各飛行場に比べると比較的多く残されており、茨城県立友部病院の管理棟は司令部をそのまま転用している。




隊門やグラウンドもそのまま友部病院が活用している。




平成23年10月、友部病院は「茨城県立こころの医療センター」と改称し、新病棟に移設。




施設内に「筑波海軍航空隊」に関する史料の展示ルームが開設された。




旧司令部庁舎は解体の予定だったが、映画『永遠の0』などのロケ地として使用された。




2013年(平成25年)12月20日から2014年(平成26年)5月6日までの予定で「筑波海軍航空隊記念館」として公開。



公開期間はその後延長されている。




貴重な帝国海軍の資料が残されており、「永遠の0」のロケのセットも残され、往時を偲ばせている。




売店に戦史の古書が・・・。



凄いまとまって売っている。



病気で歩行も大変な友人が目の色変えて物色している。



私は昔持っていた本がそこにあったので即決で買う。



友人にも幾つか本を勧める、「亡くなる前までに読まねば」と気合充分だ。



数冊購入して意気軒昂だった。



長生きして欲しいね。



これだけでも来たかいがあっというものだ。




筑波海軍航空隊記念館は保存し長く後世に伝えて欲しい。



関東近在の方は一度訪ねて見て下さい。




終戦から70年、時代は語り継ぐ時代へと変化したね。