7月20日事件は、1944年7月20日に発生したナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチス・ドイツ政権に対するクーデター未遂事件。
ナチス・ドイツの政策への反対や、第二次世界大戦における連合国との和平を目的としてドイツ国防軍の反ナチス将校グループが計画、実行した。
ヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された。
1932年に国家社会主義ドイツ労働者党の党首アドルフ・ヒトラーがワイマール共和国首相に就任した。
ユダヤ人に対する差別政策などを推進するナチスに反発し、ヒトラーの暗殺を計画、実行する個人もしくはグループが現れた。
ワイマール共和国およびナチス・ドイツにおけるドイツ国防軍とナチスおよびヒトラーとの関係は複雑なものであった。
ナチスの政策、特にドイツの再軍備、軍備拡張に賛同する将校が多くいる中で、軍事力を背景とする領土の拡張政策が周辺国との戦争を引き起こし、ドイツが敗北することに懸念を持つ者もいた。
ルートヴィヒ・ベック
1938年のナチス・ドイツによるチェコのズデーテン併合時に計画されたクーデター計画が、国防軍内における反ナチス運動の嚆矢だった。
ズデーテン併合によりイギリスおよびフランスから宣戦布告されることをおそれたドイツ陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベックは職を辞し、参謀総長のフランツ・ハルダー、アブウェール次長のハンス・オスター、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナーなど反ナチス派将校や民間人を集めてクーデター計画を練った。
フランツ・ハルダー
計画では臨時政府の元で総選挙を実施し政治を正常化させることになっていたが、ヒトラーの扱いについては、殺害、逮捕および裁判、精神異常者として拘禁するなど意見がまとまらなかった。
イギリスの首相ネヴィル・チェンバレンの提案により行われたミュンヘン会談においてイギリスおよびフランスがドイツのズデーテン併合を認めたため、クーデター計画はその根拠を失い中止された。
ヘニング・ヘルマン・ロベルト・カール・フォン・トレスコウ
1939年のポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が発生した。
ソビエト連邦との戦いが泥沼化すると国防軍将校によるクーデター計画が再燃した。
1943年には東部戦線の中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレスコウは、ヒトラーの前線視察時にこれを殺害する計画を立てた。
トレスコウの副官ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフは、ヒトラーの乗機に爆弾を仕掛けたが不具合により起爆せず失敗した。
ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ
この他にもルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフなどを実行犯とするヒトラー殺害が企てられたが、スケジュールの変更などの事情により決行されなかった。
フリードリヒ・オルブリヒト大将
1944年6月、米英軍はノルマンディーに上陸し、ソ連軍の攻勢によりドイツの敗色は濃くなり、「黒いオーケストラ」グループはヒトラーを排除して米英軍と講和する計画を急ぐようになった。
この頃にはヴィッツレーベン元帥、ベック退役上級大将、ヘプナー退役上級大将、トレスコウ少将の他に、国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を始め、数多くの将兵がグループに加わっていた。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
暗殺実行者にはクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が選ばれた。
彼は旧ヴュルテンベルク王国の貴族の出で、1943年4月に北アフリカ戦線のチュニジアで負傷し、左目、右腕、左手の指二本を失っていた。
そのため彼に対しては警戒も薄く、ボディーチェックもほとんど行われなかった。
フリードリヒ・フロム
1944年6月20日、彼は国内予備軍参謀長に任命され、ヒトラーと直接会う機会が増えていた。
彼の上官、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将は、グループに加わっていなかったが、彼らの企てを半ば黙認していた。
暗殺は、プラスチック爆弾を2個用意、起爆装置を作動させるスプリングを針金で締め付け、それを硫酸で10分間で溶かす時限装置を使い、爆発させる。
その爆弾を入れた鞄を持ち歩き、暗殺実行可能と判断したら爆弾を作動させる予定だった。
繰り返す計画延期
1944年7月6日、シュタウフェンベルク大佐は、ベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘「ベルクホーフ」で行われた会議に出席し、この時初めて爆弾を携帯した。
当初、シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、彼が実行せず失敗した。
7月11日のベルクホーフでの会議。
しかしこの日、ヘルマン・ゲーリングとハインリヒ・ヒムラーが出席していなかった。
この時点では「黒いオーケストラ」グループは、ヒトラーと共に他のナチス首脳も暗殺すべきだと考えていた。
彼らはゲーリングは特に問題視しなかったが、親衛隊指導者ヒムラーは暗殺せねばならないと主張。
彼が生存していると、親衛隊と陸軍の間で内乱になる恐れがあったからだ。
シュタウフェンベルクは会議を抜け出しオルブリヒトに連絡。
ヒムラー不在を告げると、オルブリヒトは計画中止を指示。
落胆した彼はシュティーフに向かって「こん畜生め!行動すべきではないのか?」と口にしたという。
7月14日、ヒトラーは予告なしでベルクホーフから、東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」へ移動。一方、シュタウフェンベルクは、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将と共に7月15日に出頭し、東部戦線へ投入する新しい師団立ち上げについて報告するよう命じられた。
彼は1942年秋以来「ヴォルフスシャンツェ」へ行った事が無く土地勘は無かったが、今やヒトラーがベルクホーフに戻るのを待つ時間は無く、総統大本営での暗殺決行を決意した。
2人がベルリンを発った後、ベントラー街のオルブリヒト大将とその副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐は、フロムの留守を好機に「ヴァルキューレ作戦」を発動。
ベルリン郊外の陸軍学校と予備訓練部隊に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。
事前に「ヴァルキューレ作戦」を発動したのはこの時だけだった。
カイテル元帥
7月15日もヒムラーは会議には出席していなかった。
彼の欠席を確認後、シュタウフェンベルクは会議室を抜け出し、ベルリンのクイルンハイム大佐に連絡。
ヒムラー不在だが、それでも決行したいので許可が欲しい旨を伝えた。
クイルンハイムはそれをオルブリヒト、さらにベック、ヘプナーにも伝えたが、将軍たちは計画中止を命じる。シュタウフェンベルクは「僕ら2人で決めるしかない」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。
クイルンハイムも「やりたまえ」と答えたが時すでに遅し、会議はその後すぐに終了してしまった。
一方、オルブリヒトたちは「あれは演習だった」としてベルリンの警戒態勢を解除して取り繕った。
後刻この「間違った警報」の件でカイテル元帥がフロム上級大将を叱責し、さらにフロムがオルブリヒトを叱った。
ただ、かろうじてクーデターの真意は隠し通せた。
シュタウフェンベルクは意気消沈してベルリンへ戻ると、クイルンハイムと話し合う。2人は、次のチャンスには将軍たちの意向は無視しよう、ということで一致した。
ヴェルナー・カール・フォン・へフテン
7月19日、翌20日午後1時から総統大本営で開かれる作戦会議に予備軍幕僚を派遣するよう再び命令が下り、シュタウフェンベルクと副官ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉が出頭する事になり、今回はフロムは招集されなかった。
このように、1944年7月には、何度か暗殺計画が企てられたが、決行せずに延期が繰り返された。
計画実行
7月20日午前7時頃、シュタウフェンベルクらは飛行機で総統大本営に向かった。
しかし到着後、午後1時開催予定の作戦会議は、ムッソリーニ来訪のため30分繰り上がり、午後0時30分開催へと変更を告げられた。
一方、ベルリン・ベンドラー街の国内予備軍司令部にはオルブリヒト、クィルンハイム、ヘプナーなど反乱派が集まり、暗殺実行を機に「ヴァルキューレ」作戦を発動すべく待機していたが、彼らは予定が繰り上がった事を知らなかった。
午後0時32分、爆弾の起爆装置を作動させた鞄を持って、シュタウフェンベルクが会議場に入った時には、すでに会議は始まっていた。
午後0時37分頃、爆弾入り鞄を作戦会議場の巨大なテーブルの下に押し入れ、ベルリンへ電話をかける名目で会議場を後にした。
午後0時42分、轟音と共に爆弾は炸裂し、会議室は破壊された。
ギュンター・コルテン
爆発により、速記者ハインリヒ・ベルガー( Heinrich Berger)は両足を失いほぼ即死。
陸軍参謀本部作戦課長・総統副官ハインツ・ブラント大佐は片足を失い、空軍参謀総長ギュンター・コルテン上級大将は腹部に重傷を負い二人とも2日後に死亡。
総統副官のルドルフ・シュムント少将は、腰部の重傷で10月1日に死亡。
残りの参席者も重軽傷を負った。
ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷したが奇跡的に軽症で生き残った。
ブラント大佐
暗殺失敗の原因
当日の気温が高く、地下会議室で行われる予定の作戦会議は地上の木造建築の会議室で行われ、窓も開け放され、仕掛けた爆弾の威力を削ぐ結果となった。
更に会議の開始が直前になって30分早まったため、用意していた2個の爆弾のうち1個しか時限装置を作動できなかった。
シュタウフェンベルクは爆弾が入った鞄を、会議用テーブル下のヒトラーに近い位置に置いたが、総統副官のブラント大佐はその鞄を邪魔に感じ、それを木製脚部の外側へ移動させた。
その偶然の動作に加えてテーブル脚部が盾となり、ヒトラーは爆風の直撃を免れた。