7月20日事件  その2 | 戦車兵のブログ

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「ヴァルキューレ」作戦発動




午後1時13分頃、シュタウフェンベルク大佐とヘフテン中尉は、ヒトラー死亡を確信しつつ、ベルリンへ飛び立った。




しかしその頃、暗殺計画に加わっていた陸軍通信部隊司令官フェルギーベル大将は爆発現場に居て、ヒトラーが生きている事に気付く。




彼は総統大本営から外部への通信を遮断し、間接的表現ながら、ヒトラー生存を伝えた。




爆発は当初、ソ連軍機が低空から爆弾投下したのが原因と考えられていたが、やがて会議に参加していたはずの、シュタウフェンベルクの姿が爆発後見えず、爆発前の奇妙な行動から、彼が犯人と把握され、ヒトラーはSS総司令であるヒムラーに事件の調査とシュタウフェンベルク逮捕を命じ、自らは来訪するムッソリーニとの会談に臨んだ。




実行犯2人がベルリンへ飛行中の約3時間、連絡を交わす事は不可能で、その間、通信管制下の総統大本営からの情報も曖昧で断片的なものだったため、ベルリンにいた反乱派は、「ヴァルキューレ」作戦を発動するかどうか判断に迷った。





軍の部隊を召集し展開させるには一定の時間が必要で、発動が遅れればそれだけ、クーデターが不利になるのは確実だった。



クイルンハイム大佐



午後3時50分頃、2人が到着する前に、クイルンハイム大佐が、「ヴァルキューレ」発動を各軍管区にテレタイプで発令していた。



命令にはヴィッツレーベン元帥が署名、総統の死亡と非常事態宣言、彼が国防軍総司令官になった旨伝えていた。



午後4時頃、ベルリンの飛行場に到着したシュタウフェンベルクは、オルブリヒトに爆発成功を連絡。




オルブリヒトは国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将にヒトラー死亡を伝え、「ヴァルキューレ」発動を求めた。




しかし、フロムが総統大本営のカイテル元帥に連絡すると、彼はヒトラー生存を伝え、更にシュタウフェンベルクの居所を追及した。




それに対しフロムは「シュタウフェンベルクはまだ帰ってきていない」と回答。



カイテルとの連絡後、フロムはオルブリヒトに「ヴァルキューレ」発動の必要無し、と告げた。



ヒムラー


情報戦



「ヴァルキューレ」発動の通信は総統大本営にも伝わり、ヒトラー側は、これは一大佐に過ぎないシュタウフェンベルクの単独犯行などではなく、大掛かりな背後関係がある事を悟る。



ヒトラーは国内予備軍司令官フロム上級大将の関与を疑い、彼を解任し、ヒムラーをその職に任命、秩序回復の権限を与えた。



午後4時15分、カイテル元帥は総統の生存、及びヒムラーの国内予備軍司令官就任と、フロム、ウィッツレーベンの命令には従わないよう、テレタイプで全管区に通達した。




午後4時45分頃、勝手に「ヴァルキューレ」発動したことを知ったフロムは激怒し、司令部に到着したシュタウフェンベルクらに自決を迫って反乱派と小競り合いとなり、一室に軟禁された。




午後5時過ぎ、反乱派はヘプナー上級大将を国内軍司令官に任命した。




一方、ヴァルキューレ発動と動員命令、更には総統の生存という、2つの相反する指令を相次いで受けた各地の部隊は混乱し、反乱派とヒトラー側の双方に事実確認を求める連絡が殺到した。





シュタウフェンベルクやオルブリヒトは電話での対応に追われ、反乱成功に必要な活動を行えなくなった。



レーマー少佐



その間、反乱派のベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将の命で、警備大隊長レーマー少佐の部隊がベルリン市内の主要地点に配置され始めた。



しかし国内予備軍司令部の反乱派からの適切な指示も無く、動員された人数も少なく、拠点の出入りを規制することしかできなかった。



そのため放送局内部に人員を配置することもせず、宣伝省やゲシュタポ本部にいたっては全く手付かずだった。



午後6時、反乱派は全軍管区に対し、戒厳令布告と武装親衛隊、ゲシュタポの処理・粛清、閣僚・ナチス党幹部・警察幹部の逮捕と強制収容所の確保を指令した。



午後6時45分、ベルリン放送局が「総統の暗殺が企てられたが失敗した」旨を放送。



このラジオ放送はヨーロッパ中に届いた。





ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相



その少し前の午後6時30分頃、ベルリンにいたヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相は、反乱派の命により出動したレーマー少佐を宣伝省に呼んだ。


彼はレーマーをヒトラーと直接電話で会話させ、味方に引き入れた。


ヒトラーはその場でレーマーを大佐に昇進させ、反乱鎮圧とヒムラーが到着するまでの間、現場責任者に任命した。


レーマーは配下の将校をベルリン市内の要所に配備させ、市内へ向かう各部隊に事情を説明し、国内予備軍司令部から発令されたヴァルキューレ発動に伴う命令に従わないよう伝えて回った。


このように、反乱派は自ら軍部隊をベルリン市内の現場で直接指揮せず、市内の制圧を、自分らに対しシンパシーを持たない将校(レーマー少佐)が指揮する一個大隊の兵力にゆだねる、という致命的ミスを犯し、放送局やゲシュタポ本部、宣伝省など重要拠点の確保に失敗。


更にその将校がヒトラー側に抱き込まれ、自衛のための部隊すら喪失。


逆にその部隊によって掃討されることになる。





午後7時45分頃、反乱派は放送局の放送内容を否定し、発令された命令の実行を改めて指令した。


さらに西部方面軍司令官クルーゲ元帥にはベックが直々に連絡し、反乱への参加を呼びかけたが、クルーゲは言を左右にし応諾しなかった。


彼は自ら総統大本営のシュティーフ少将に連絡してヒトラー生存を確認。それ以後反乱派と連絡を絶った。


午後8時すぎ、パリ軍政長官シュテュルプナーゲル大将と、シュタウフェンベルクの従兄弟ツェーザー・フォン・ホーファッカー(de:Caesar von Hofacker)大佐が、クルーゲの元を訪れて説得したが、彼はそれに応ぜず、逆に逃亡・潜伏を薦めている。


エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン



午後8時10分、反乱派の軍事的最高位ヴィッツレーベン元帥が、国内予備軍司令部に到着するが、司令部の混乱ぶりと指揮する軍部隊が居ない事を知り、シュタウフェンベルクらの不手際を批判する。




一方、総統大本営から各軍管区にカイテル元帥から、総統生存とウィッツレーベン、ヘプナーからの命令には従わないよう指令が伝わる。




各軍管区司令部は、ベルリン放送やカイテルの指令が真実であると認識し、ヴァルキューレ発動を中止。ヒトラーに忠誠を誓った。



ウィーンの第17軍等は、大管区指導者、親衛隊関係者を逮捕する動きに出ていたが、すぐに中止している。



午後8時50分頃、ヴィッツレーベンはクーデターの失敗を悟り、国内予備軍司令部を出てベルリン郊外の友人の別荘へ行った。




午後9時30分頃、ベルリン防衛軍司令官ハーゼ中将が降伏したという知らせが入り、シュタウフェンベルクもさすがに疲労と落胆を隠せなくなった。








午後10時過ぎになると、国内予備軍司令部の反乱派は完全に孤立。




その頃から、同司令部にいたフランツ・ヘルバー中佐、ハイデ中佐ら、ヒトラー支持の将校十数人がこっそり武器を集め、オルブリヒト大将に公然と挑戦し始める。




午後10時30分過ぎには、反乱派たちと銃撃戦のすえ彼らを検挙し、フロムを解放させた。





スコルツェニー親衛隊少佐




一方、カルテンブルンナー国家保安本部本部長は、当日ウィーンへ移動する予定のスコルツェニー親衛隊少佐を急遽ベルリンに呼び戻し、親衛隊の部隊を編成して国内予備軍司令部に向かわせた。



午後11時頃、フロムはその場で軍法会議を開いた。




ベックは直ちに自決の許可を求め、フロムはそれを認めた。



続いてフロムはオルブリヒト、クイルンハイム、シュタウフェンベルクおよびヘフテンらに即時死刑を宣告した。



フロムは親交の有ったヘプナーにも自決を勧めたが、ヘプナーは拒否し、裁判闘争を望んだために逮捕された。



ベックは2度自決に失敗し、最後はフロムの命令で一兵士がベックに止めの銃弾を撃ち込んだ。





日付が替わった7月21日午前0時15分過ぎ、国内予備軍司令部の中庭でシュタウフェンベルクら4人は相次いで銃殺された。



フロムは他の反乱参加者も処刑しようとしたが、スコルツェニー少佐の部隊が国内予備軍司令部に到着。



それ以上その場での処刑を中止させた。




21日午前1時、ヒトラー総統の演説がラジオで放送された。




ヒトラー自ら爆破事件の経緯を説明したことで、彼の生存は明らかとなり、事件は完全に終息した。





トレスコウ少将


7月21日、東部戦線のトレスコウ少将は、ソ連軍との最前線付近で手榴弾を爆発させ自決。



西部戦線のシュテュルプナーゲル大将も自決を図ったが失敗し、病院に収容されて治療後逮捕された。




カール=ハインリヒ・ルドルフ・ヴィルヘルム・フォン・シュテュルプナーゲル




21日を境に、陰謀に加担したとみられる者が逮捕され、ゲシュタポの厳しい訊問と拷問を受けた。



逮捕者数は容疑者と親類縁者、逃走幇助者など連座拘束を含めて600-700人とされる(また、この機会に乗じ、日頃から反ナチスの言動で知られた人々も逮捕され、その数は約7,000人とされる)。





軍関係の容疑者たちは、国防軍総司令部に設けられた、形式的な特別名誉審判で軍籍を剥奪された後、ヒトラーが「我々のヴィシンスキー」と呼んだ民族裁判所長官ローラント・フライスラーによる形式的な見せしめ裁判にかけられた。





8月7日から始まった裁判では、まずヴィッツレーヴェン、ヘプナー、ハーゼ、シュティーフら8人が起訴され、翌8日、死刑判決が下るとその数時間後には、ベルリン北西部プレッツェンゼー刑務所(Gedenkstätte Plötzensee)の処刑場で、ピアノ線で吊るされ、時間をかけて絞殺する残虐な方法で絞首刑にされた。



その処刑の模様は映像に記録され、ヒトラーの鑑賞に供された。



処刑の映像を彼は楽しんで鑑賞したという説もあるが、側近達の回想では鑑賞を拒否したとされている。




その後、ヘルドルフ、シュテュルプナーゲル、フェルギーベル、ホーファッカー、ゲルデラー、ネーベ、カナリス、オスター、ボンヘッファーら約200人が次々に処刑された。




1945年2月3日、裁判長フライスラーはファビアン・フォン・シュラーブレンドルフの裁判中、アメリカ軍の空襲で死亡したが、その後も裁判と処刑は継続され、ドイツの敗戦直前まで続いた。




一方、フロム上級大将は、シュタウフェンベルクらを勝手に処刑した事が、口封じだと見なされて逮捕され、7月20日事件当日の態度が、優柔不断で陰謀に断固抵抗せず、臆病であるとして1945年3月12日に銃殺された。




処刑の映像は、見せしめと警告の目的で、陸軍士官学校で上映されたが、生徒達から強い批判を受けて、ヒトラーは敗戦までに全面破棄を厳命したため、現在も発見されていない。



エルヴィン・ロンメル元帥



粛清の影響を受けた主要な人物




エルヴィン・ロンメル元帥 - 戦傷で療養中だったが陰謀への関与を疑われ、1944年10月14日、自殺を強要され服毒死した。




エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥 - 副官がトレスコウ少将の従兄弟であった関係で、陰謀の存在を知っていたが難を逃れた。




ギュンター・フォン・クルーゲ元帥 - トレスコウ少将の上司であり、反ヒトラーの陰謀がある事は知っていたが、決定的には疑われなかった。




しかし1944年8月、西部戦線の司令官を解任され、帰国途中の18日に服毒自殺している。





ヒャルマル・シャハト元経済大臣 - 関与を疑われ、ダッハウ強制収容所に収容されたが、敗戦直前に解放される。




エルンスト・ユンガー大尉 - ロンメル元帥やフォン・シテュルプナーゲル将軍をはじめ西部方面のドイツ将官に影響力を及ぼしていた『平和』の著者。




ヒトラー暗殺計画との関連を追及され軍を解雇されている。





第二次世界大戦が終結すると、彼らは反ナチス運動の実行者として賞賛されることになった。



現在ベルリンの国防省跡に、ベック、シュタウフェンベルク、ヘフテン、オルブリヒト、クイルンハイムら五人の名を刻んだ記念碑が建っている。




また予備軍司令部があったベンドラー街は、シュタウフェンベルク街と改称され、ナチス抵抗運動の記念館が建っている。



彼らが処刑された中庭の跡には、象徴としてブロンズ像が置かれている。





元々パーキンソン病を患うなど、体調が悪かったヒトラーは、爆発の影響で病状がさらに悪化した上、極度の人間不信に陥った。



また、この事件を契機に国防軍内でも右手を真っ直ぐに伸ばすいわゆるナチス式敬礼を行うことになった。




その他、それまでは政治的影響を免れていた海軍にも政治将校が配属され、それは前線のUボートにもおよんだ。




さらに、「7月20日の裏切り者」のレッテルを貼られることを怖れた将軍達はヒトラーに意見することを止め、ドイツ軍の作戦行動は硬直化することとなったが、反面軍部内の防諜が強化され、連合軍の情報収集活動が困難化した。




暗殺未遂事件に関与した者に対する粛清は、ドイツ降伏直前の1945年4月下旬まで続けられた。