沖縄県人は大東亜戦争で日本は沖縄を見捨てたと口を開けばいう。
果たしてそうか?
八万の陸軍と、そして戦艦大和の特攻、陸海軍の多くの特攻出撃の犠牲が示す沖縄戦を何も評価しない沖縄県民の言い草には腹が立つ。
以下産経ニュースより転載
特攻機は翼を左右に振って別れを告げた…。
太平洋戦争末期の沖縄戦に参加した元陸軍の戦闘機パイロット、岡本巖(いわお)さん(90)=岡山県倉敷市=は、鹿児島県の知覧飛行場から飛び立つ特攻隊を支援する任務にあたった。
「同期生は命を投げ出して戦ってくれた。生き残った者として、記憶を語ることが供養だと思う」。何度もそう繰り返す。
地元の尋常小学校を卒業後、「教師になれ」という父の期待に応えようと、岡山県第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)に進学した。
当時、中学の軍事教練担当の配属将校に、東京・市ケ谷の陸軍士官学校への進学を勧められたことが、戦闘機パイロットを目指すきっかけになった。
友人からは「一緒に六高(旧制第六高等学校・現在の岡山大学)に行こう」と誘われたが、「男として士官学校に行って兵隊になり、お国のために戦いたい」と入学を決意した。
昭和16年に中学校を4年で修了し、陸軍士官学校に入学した。
陸軍士官学校ではロシア語を学び、気象学や馬術などにも取り組んだ。
当時の「あこがれの的」だった戦闘機パイロットを目指し、厳しい試験に合格。最新鋭機「四式戦闘機(疾風(はやて))」のパイロットとなった。
昭和20年3月、宮崎県都城市の飛行場に配属された。
そこでは、知覧飛行場から沖縄へ向かう特攻機を敵機から守って目的地近くまで送り届けるのが任務だった。
「敵の戦闘機を一機でも多く堕(お)とすのが、戦闘機乗りの使命。特攻隊員を一人も欠かさず沖縄に送り届ける」。
強い決意で操縦桿(そうじゅうかん)を握った。
ある日は待ち伏せる敵機と交戦して、後から来る特攻隊への注意をそらした。
また、ある日は特攻機に海面スレスレの超低空飛行をさせて、その直上を飛行して隠した。
「『人生50年』といわれる中で21歳で死ぬのか」と恐怖し、「下手な死に方をすれば、家族が笑われる」。
任務を忠実に遂行する一方で、心の葛藤で苦しんだ日々もあった。
特攻機は無事目的地近くまでくると、翼を左右に振って別れを告げた。
見送る岡本さんも自機の翼を振って応えた。「沖縄に行くのは大変だった。天候が悪かったり、敵機が多い場合、思ったように作戦を遂行できなかった。特攻機を守ることも難しかった」と、深く目を閉じた。
「士官学校に行ったからには『国が命を差し出せ』と言ったら出さねばならない」と、特攻隊員の志願届には「熱望」と書いて提出した。
だから、特攻隊員に選ばれれば、「死ぬ覚悟はできていた」と語る。
士官学校の同期生は約2千人。
1千人が戦死し、約100人が特攻で死んだという。
「特攻した仲間には恋人や家族がいた。気の毒というか、かわいそうというか言葉にならない気持ちで、胸が締め付けられた。彼が死んで、なぜ生きているのだろう。友を見送ったのは思いだすのもつらい」。そう言って、目を潤ませた。
昭和20年4月1日、沖縄に米軍が上陸した。翌5月まで任務を遂行したが、沖縄は占領された。
その後、滋賀県八日市市(現在の東近江市)へ移って、飛行部隊を指揮するための訓練などをして、満州へ渡る直前に終戦を迎えた。
「戦争に勝たないといけないのは分かる。しかし、特攻作戦は外道の戦術」。特攻する仲間を見送ったパイロットの言葉は重い。
多くの仲間を戦争で亡くし、その悲惨さを伝えるため、講演会などで語り続けている。(薬師寺大輔)
沖縄戦の陸軍特攻 知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)によると、沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した昭和20年3月26日から始まった。
知覧をはじめ九州各地などの基地から出撃。
全特攻戦死者1036人のうち、中四国出身者は広島28人▽岡山26人▽山口20人▽香川17人▽徳島、愛媛各13人▽鳥取9人▽島根8人▽高知6人。
(産経ニュース)
特攻の是非について語る言葉が見つからない。
身を挺して戦うのは当然だが、特攻は「決死隊」ではなく、「必死隊」だからだ。
特攻を垣間見た方というのは本当に貴重だ、特攻出撃して生きて還った人は・・・・・。
直掩の戦闘機というのは過酷な任務であったろう、どうか長生きして特攻の話を後世へ伝えて欲しい。