硫黄島の記事。
激戦地の跡が色濃く残っているが、どうもいろいろ変化しているらしい。
以下産経ニュースより転載
昭和20年、東京の南約1250キロの太平洋に浮かぶ硫黄島(東京都小笠原村)をめぐって日米両軍が激突してから今年で70年。
島内には今も地下壕や大砲、戦車など戦跡がそのまま残る一方、戦前の生活をうかがわせるものはほとんど残っていない。
1千人以上が暮らしていた島の集落は見る影もなく、火山活動による隆起で島の地形そのものが変わろうとしている。(橋本昌宗)
砲撃を受け、形が変わった山
硫黄島は戦前、南洋に浮かぶ火山島であることを生かしたサトウキビなどの作物の栽培で金銭的にも豊かだった。
小学校や硫黄島村役場、硫黄島神社、商店などが集まる「元山」集落を中心に、周辺には「東」「北」「漂流木」「玉名山」などさまざまな集落があり、民家や牧場、砂糖工場などがあったという。
旧島民の男性(85)は、「元山集落にある小学校に向かう途中に地熱が高い『硫黄が丘』に立ち寄り、卵やイモを埋めて登校する。
昼過ぎにはゆで卵やふかしイモのようになっていて、それを食べるのが楽しみだった」と平和だった島の暮らしを話した。
島民は昭和19年に疎開を強いられたが、島には米軍が上陸する前から航空機による爆撃や艦船からの砲撃が相次いでいた。
米軍が上陸後に星条旗を立てたことで知られる摺鉢(すりばち)山はあまりにも多くの砲撃を受けたために「山の形が変わった」とまで言われている。
集落はジャングルに変貌
住居が軒を連ねていた集落はいまは、見る影もなくなっている。
島北部の「漂流木」集落から山側に少し入る。ここには、旧島民の男性(故人)が子供の頃に暮らした家があったという。
小笠原村が実施している旧島民の訪島事業では、戦前に暮らしていた場所に帰る「里帰り」も重要な事業の一つだ。男性の妻と子供、孫の里帰りに同行した。
男性の妻(88)は戦前に硫黄島を訪れたことはなかったが、戦後は何度も男性とともに島を訪れ、戦前の様子を教えられたという。
「ここが家です」という妻の声に振り返ると、見渡す限りの樹木が目に入る。指をさして「あそこから、あそこまでが屋敷だったそうです」と教えられたが、ひたすら木が生い茂るジャングルにしか見えなかった。
妻は「戦後、米軍が島で農業をしたり、生活したりできないように、『ギンネム』という木の種を植えたと聞いている。だから集落があった場所はみんな木がたくさん生えていて元の様子は分からない」とつぶやいた。
生命力の強いギンネムは、戦後70年が経過して大木に成長し、簡単に取り除くことはできない。
島には重機なども少ないため、この一家は年に一度島を訪れ、伸びた雑草などを掃除して男性や、その兄弟、両親らを弔っている。
「生きている」火山島 海底が次々陸地に
硫黄島内を走るマイクロバスに揺られていると、対向車もいないのに突然徐行することがよくある。道の途中に段差ができたり、舗装したアスファルトが大きく変形していたりするためだ。
これは、島が現在も隆起しているために起きる現象だという。
硫黄島は火山活動が活発なため、島のあちらこちらで噴煙が上がる様子や地表に露出した硫黄の結晶を見ることができる。
地面の隆起も続いており、島の景色を変えていくという。
島の西側の海岸を通ると、砂浜にぼろぼろに朽ちた船の残骸がいくつも転がっている。
小笠原村の職員から「戦闘終了後、大きな港湾施設がない硫黄島に、艦船で接岸できる足場を作ろうと、米軍が船を沈めて足場にしようとした」と説明してくれた。
意図は理解できたが、「船が陸上にあるのに『沈めた』とはどういうことか」と考えていると、職員が「いま船がある場所は戦前、海の中だった。どんどん隆起してまるっきり地上に出てきてしまった」と明かした。
こうした現象はあちらこちらで起きている。
島の北西端に「釜岩」と呼ばれる岩がある。
現在は岬の先端にあるが、戦前は島の海岸線から約1キロ離れた沖合にあったというから驚きだ。
旧島民によると、「1年に1メートル近く隆起しているところもある」という。
こうした火山活動の影響もあり、旧島民の帰島は認められていない。
旧島民の男性は「今でも1日も早く島に帰りたい。小笠原や沖縄は日本に返還されたが、硫黄島には帰れない。私たちの戦後はまだ終わっていない」と力を込める。
全域に多数の戦跡を残しながら、変貌を遂げ続ける硫黄島。
激戦を闘った日米両軍の関係者だけでなく、ここで暮らした島民たちの思いは、70年たった今も島に注がれている。
(産経ニュース)
観光地としては行けない硫黄島だけに、なかなか硫黄島へは行けない。
慰霊の島だ。
飲み水も雨水を貯めたものだし、関係者以外の者の立ち入りを制限するしかないのだそうだ。
例え慰霊で行けても散策とかは出来ないらしい。