幽霊はいると思う? | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。


幽霊はいると思う? ブログネタ:幽霊はいると思う? 参加中



久し振りに「ブログネタ」です。



幽霊はいると思う?というお題。



もちろんいるに決まってる。



「幽霊」にしても「英霊」にしても「霊」はいる。



不思議な話は怪談ばかりじゃなく、軍隊や戦史のみならず自衛隊でもたくさんある。





少しそんな話を紹介しよう。





 


映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の舞台ともなった硫黄島。




現在、海上自衛隊の航空基地があり、約350人の自衛官が常駐している。




日本最大の心霊スポットとも言われたりする。



怪談話はたくさんあり過ぎるくらいだが、「英霊」は「幽霊」となって硫黄島で当たり前のように出ると言われている。




硫黄島は東京都の南約1200キロにある太平洋上の島。




一般人の立ち入りは元島民の慰霊などを除きできない。




昭和20年2月16日から3月26日まで日本軍と米軍の間で戦闘が行われた。




太平洋戦争後期の島々を巡る戦いの中でも、米軍地上部隊の損害が日本軍のそれを上回る有数の激戦地となった。




 米軍の戦死者は約6800人、戦傷者は約2万1900人で合わせて約2万8700人。




対する日本軍の戦死者は約2万100人、生き残ったのは捕虜になった約1000人。




滑走路の下に幾千の日本軍将兵が眠っている。




 


「硫黄島の石」




防衛大の3学年には硫黄島研修と言うのがある。




戦史教育のため、激戦地の硫黄島戦史を勉強する為に行われている。




「硫黄島の石を持って帰ってはいけない」




そう注意を受ける。



隠して持って帰って来た学生が、帰って来て3日目の朝の点呼の時に出てこなかった。




週番が調べに行くと心臓麻痺で死んでいたそうだ。



防大に伝わる怪談はここから始まるだが・・・。



その死んだ学生のベットをそのまま使っていたらしい・・・そのベッドで寝ているととにかく金縛りにあう。


それで、ベッドを替えてくれと指導教官に頼むと教官はやっぱりそうかって顔をしてすぐに変えてくれたそうだ。


それ以来、防大で硫黄島研修で帰った学生は靴の溝に挟まった小石一つも持ち帰らないようにしているという。





海上自衛官の話。




本来は海自の輸送船で帰るはずだったが帰りも飛行機に変更になった。



滑走路で整列していると某2尉が「よ~し!お前等、ポケットの中身を互いに確認しろ・・・、 半長靴は一度脱いで靴底を叩いて砂を落とせ・・・、 昔、嫌いなヤツの雑嚢に小石をこっそり忍ばせたヤツがいたが 絶対にするな。」いつも陽気な某2尉がそう言った。




「オイオイ!まじかよ防大出の幹部のセリフかよ」と幹部自衛官の公式の命令として硫黄島の砂を持って帰っちゃいけないのかと思ったそうだ。






YS-11M機上整備員の話。





実体験ですが、数年前の夏無事に定期便も終わり硫黄島から厚木の帰り便大きな荷物もなく便乗者は海保職員1名。天候晴れ、風微風。定刻に離陸なのですがいつもより滑走距離が長い、パイロットも変だナーという顔。




夏の日差しの機内ほど程よい温度で弁当の後、やることもないので機内でお昼寝。



しばらくして人のざわめきというかひそひそ声でふと目がさめ機内を見回しても海保さんが寝てる姿しかない。




改めて寝直すと「これで国に帰れる」「友軍機が来てくれて助かった」とはっきり。




流石に目が覚めて後部貨物室を見回してもなにも・・・・。





海保さんもやや青ざめた顔で「聴きましたか?」と2人そろって前に逃げ込んでパイロットにその事を報告。




パイロットが「それで重かったのか、お盆も近いし」と涼しい顔。




その後何事もなく厚木に到着、機体点検をしてると耳元ではっきりと「連れて帰っていただき有り難う御座いました!」 と聞えた。




YS-11Mはもうよぼよぼの機体であっちを直すとこっちが壊れるというような機体で整備員泣かせですが、厚木から向かった機がハイドロ漏れを起こしどうやっても治らない。



パイロットと硫黄島管制が戻るか戻らないという話を始めた少し後に漏れがぴたりと止まった。



この状態ならと言うことで硫黄島に到着。エンジン部分を開けて点検をすると当該ハイドロポンプの漏れていた配管箇所に手の跡がくっきりとあった。




このときのパイロットは霊の類は信じない人でしたが、それ以来、硫黄島に行くたびに慰霊碑に手を合わせるようになったそうです。



 週1の定期便(硫黄~南鳥)で行くのですが、偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ。



硫黄の隊員かなと思ってたのですが、先輩、いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね!あ、お前も見たのか・・・・・、下に降りたらローマスにその話してみろ。




ロードマスターに話をしたらどうも旧軍の霊らしいと。




日の丸を見て友軍が来たと歓迎してくれてるようだと。その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから見ることが無くなりました。




今も、定期便時(厚木→硫黄)は内地から和菓子、水、酒、弁当を1組積んで飛んでいきます。




こういう話も、有る定期便か硫黄に向かうとき天候悪化で滑走路が見えずもう1度トライしてだめなら帰ると言うときに硫黄の滑走路端に灯りが見え無事にタッチ。




パイロットが礼を言いに行くと誰もサーチライトとかを付けてないと・・・・。







新聞・雑誌で記事になった「怪談」を紹介します。


1946(S21)年2月 東京都港区麻布の米騎兵第一師団司令部で、日本兵の幽霊を見たと言う米兵の証言が続出した。現場は旧陸軍麻布第一連隊駐屯地の跡地であった。(内外タイムス)


1962(S37)年12月 福岡県の航空自衛隊築城基地では、一年前から幽霊が目撃されていた。監査に訪れた防衛庁空幕監査官も幽霊を目撃した為、慰霊祭が営まれた。(西日本新聞 他)



1963(S38)年8月 埼玉県入間市の航空自衛隊入間基地で、九人の隊員が幽霊に襲われた。問題の部屋は旧陸軍時代の死体安置室で、戦後は朝鮮戦争で負傷した米兵の病室だった。(週刊読売)


 

1971(S46)年6月 東京都立川市の米軍基地に火の玉が出たと言うので騒ぎになった。基地には朝鮮戦争からベトナム戦争にかけての戦死者が多数運ばれていた。(東京新聞)



1972(S47)年10月 福岡県陸上自衛隊小郡駐屯地自動車訓練所で、隊員が続けざまに武士の幽霊を目撃した。


現場は古戦場で、訓練所建設の折にも人骨が出ていた。(フクニチ 他)



1973(S48)年6月 伊豆七島新島の旧海軍墓地で、都立新島高校の教諭がどこからか流れてくる行進曲の演奏を聞いた。


生徒達には何も聞こえなかった。(週刊大衆)



1974(S49)年3月 ルパング島での生存が確認された、元日本兵小野田寛夫を撮影した写真の背後に戦友の幽霊が映るとの説があり、新聞がこれを報じた。(東京新聞)



1977(S52)年8月 フィリピンのマニラ市郊外に日本兵の幽霊が出るという現地の噂をきっかけに、厚生省は一度打ち切った遺骨収集計画を再度検討する意向を固めた。(毎日新聞)



1985(S60)年8月 群馬県上野村お御巣鷹尾山に日航ジャンボ機が墜落し、五百二十人が死亡した。


現場で作業した若い自衛隊員は、その後犠牲者が迫ってくる夢にうなされたという。(「共同通信社会部」講談社)



1989(H1)年7月 東京都新宿区の国立予防衛生研究所建築工事現場から三十五体の人骨が出土した。


現場は旧陸軍医学校跡地で、かねてから幽霊出没の噂があった。(毎日新聞 他)



1992(H4)年4月 国立予防衛生研究所建築工事現場から出土した人骨の鑑定結果が公表された。


最終的に出土した人骨は百体以上で、開頭手術を受けたと見られる骨もあった。(朝日新聞)



別冊宝島No268「怖い話の本」の「事件になった戦後の怪談・奇談年表」(小池壮彦)より抜粋。




幽霊がいるかいないか議論するような話ではない。


信じるか信じないかの話ではある。


ガダルカナルで全滅した旭川歩兵二十八聯隊は、全滅した夜に原隊の旭川の歩兵二十八聯隊へ一木大佐以下戦没者将兵が連隊旗を奉じて帰還したという話すらある。



もちろん当時はガダルカナルの戦闘なんて地元の人達は誰も知らないし知る術はなかった。



目撃者も少なくなく、地元ではかなり有名な話であった。




この話を戦時中聞いた私の祖母が「どこかでたくさんの兵隊さんが戦死したらしい、幽霊になって還ってきたんだと、かわいそうに」と子供の頃の私に戦争中の話しをしてくれたのを思い出す。




幽霊がいないなんてどうして言えようか。