南雲 忠一 海軍大将  その2 | 戦車兵のブログ

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1941年(昭和16年)4月10日第一航空艦隊司令長官着任。



この人事は海軍大臣吉田善吾と連合艦隊司令長官山本五十六によって決められた。



候補には小沢治三郎(37期)もいたが、慣例により年功序列で南雲に決まった。



松島慶三は山本が扱いづらい小沢より航空参謀をつければ制御しやすい南雲を司令官に選んだと指摘する。


参謀長は草鹿龍之介少将。





南雲長官は航空に関しては素人であり、草鹿参謀長も航空参謀源田実中佐を評価し献策を入れたため、源田艦隊と呼ぶ声まであった。



源田参謀によれば第一航空艦隊では南雲が訓練においても自ら操艦の指示を出したことが、雷撃隊の技量向上に貢献したと述べている。



南雲は、第一航空艦隊が艦隊として建制化されておらず臨時編成であったことから部隊としての思想統一や訓練に関して苦しんでいた。



連合艦隊も軍令部も必要は認めていたが、建制化はミッドウェー海戦の敗北後の第三艦隊まで実現しなかった。




第一航空艦隊は真珠湾攻撃の研究と実行を命じられたが、南雲は懐疑的であり、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先を主張していた。




9月中旬の海軍大学校で行われた図上演習で、日本軍は戦果をあげたものの空母3隻が撃沈判定となり、宇垣纏連合艦隊参謀長の判定で撃沈は取り消された。


宇垣纏連合艦隊参謀長




山本五十六は南雲の肩を抱き、「ああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と南雲を励ましている。




1941年(昭和16年)11月上旬、連合艦隊司令部や各艦隊司令官が集まった最後の会議で、山本は日米交渉が成立した場合、直ちに反転せよと命じた。




南雲は「出動後に引き帰すことは、実際問題として無理です。それは士気にも大きな影響があります」と述べ、航空隊指揮官からも「出かかった小便を途中でとめるようなもので出来ない」との意見が出た。





すると山本は「百年兵を養うは、一日の用にあてるためだ。もし、この命令の実施が不可能な者は、ただちに辞表を出せ」と声を荒げた。



真珠湾攻撃までの道のりは燃料について問題があったが、それを解決するため軍務局の暗黙の了解を得て南雲は自身の責任において軍紀違反である過剰な燃料の搭載を行い解決した。



真珠湾奇襲と言う重責を担った南雲は、機動部隊出撃後に、エライことを引き受けてしまった、きっぱり断ればよかった、出るには出たがうまく行くかしら、などと草鹿参謀長に内心を語っている。



草鹿が励ますと、南雲は「君は楽天家だね。羨ましいよ」と微笑したという。



草鹿自身は、南雲が作戦の行く末を非常に心配している事を知り、これが長官と参謀長の違いでもあろうとしている。




また南雲と草鹿の態度を見ていた宇垣も、指揮官と幕僚という立場の差を感じたという。








真珠湾攻撃時、思いのほか海が荒れ、草鹿と源田は雷撃隊の発艦を危ぶんで爆撃隊のみの発進を決定しかけた。



すると雷撃機搭乗員が「赤城」艦橋に押し寄せて猛烈に抗議、南雲は「お前たち、このローリングでも魚雷をかかえたまま、みごと発艦できるか」と隊員たちに聞き「やれます!」との返事に対して了承、草鹿参謀長に「参謀長、いいではないか、出してやろう」と言った。




1941年12月8日、太平洋戦争劈頭のハワイ真珠湾攻撃でアメリカの戦艦4隻撃沈、2隻大破させアメリカ太平洋艦隊を行動不能にする大戦果をあげた。




帰還した攻撃隊隊長淵田美津雄中佐から南雲と草鹿が報告を受けた。




敵の反撃の可能性があることを知った南雲は動揺した。




南雲ははじめから反復攻撃は行わないと決心しており、攻撃後は第三戦隊司令官三川軍一から再攻撃の具申があったが、南雲は草鹿参謀長の進言もあり予定通り離脱した。




再攻撃に関しては山口多聞も「第二撃準備完了」と催促はしたが山口の幕僚によれば「南雲さんはやらないよ」と意見申請まではしなかった。




連合艦隊司令部では山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言したが、山本も「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令を発しなかったという。




連合艦隊命令は「在布哇敵艦隊ヲ奇襲撃破ス」であり、再度の攻撃や石油タンク等を攻撃しなかったのは命令通りである。




軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的としていたため、南雲を一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。




山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたかったが、草鹿によれば南雲にはその真意が知らされていなかったという。





その後は南下してニューギニア、オーストラリア、インド洋を転戦し連合軍の主要根拠地を覆滅しながらの大航海をした。



ラバウル・カビエン攻略支援、ポートダーウィン攻撃、ジャワ海掃討戦などで活躍し太平洋の制空権を獲得した。



1942年(昭和17年)4月の艦隊編制改訂で、隷下部隊として第十戦隊(軽巡洋艦「長良」と駆逐艦12隻)が新設され、固有編制の護衛艦艇を持つようになった。



その後座礁事故を起こした「加賀」を除いた「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」5隻の空母を中心にインド洋に進出しセイロン沖海戦では群を抜く命中精度の急降下爆撃で空母ハーミーズ 撃沈後余力を以て他多数撃沈、トリンコマリー港を爆撃する戦果を挙げた。



同海戦では兵装転換中に英軍重巡洋艦が出現で魚雷装備→爆弾装備→魚雷装備と変更する混乱があった。



また索敵機の回収に必要な電波を発したことで艦隊位置がばれ、航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けることになったが、旗艦「赤城」が至近弾を受けるまで艦隊全員が気付かなかった。



インド洋作戦までで確実に計471機は撃墜しており損失は10分の1もなく、艦艇には一隻の被害もなかった。



史上類のない連続的勝利を記録し南雲艦隊は世界最強の機動部隊となるが、連戦連勝から疲労と慢心が現れていた。




連合艦隊司令部幕僚は、南雲と草鹿に批判的であり山本五十六長官に南雲の交代を要望したが「それでは南雲が悪者になる」と却下された。







第一段階作戦の完了にともなって南雲機動部隊が日本に帰還すると、連合艦隊司令部の立案したハワイ攻略も視野においたミッドウェー作戦を命令される。



南雲以下司令部や近藤信竹第二艦隊司令官は休養と軍艦の補修、艦・航空搭乗員双方の人事異動にともなう訓練期間の必要性や、第五航空戦隊の戦力回復を待つよう要請したが、山本五十六長官は却下した。



また南雲艦隊からは第五航空戦隊(翔鶴・瑞鶴)が引き抜かれて第四艦隊指揮下に入り、南雲指揮下の空母は第一航空戦隊と第二航空戦隊の4隻のみとなる。



第五航空戦隊はミッドウェー作戦までに南雲の指揮下に戻るはずであったが、珊瑚海海戦に投入されて「翔鶴」が大破、多数の航空機と搭乗員を失い、戻ることはなかった。



6月5日、南雲機動部隊はミッドウェー島基地攻撃隊の出撃後、「敵情変化なければ二次攻撃隊は第四編成をもって本日実施予定」と指令した。



この攻撃隊は米艦隊迎撃に備え待機させるように山本五十六連合艦隊司令から指示されていたものだった。



この時点では兵装転換は行われなかった。



しかし攻撃を終えた飛行隊長友永丈市大尉は南雲司令部に対し「第二次攻撃の要あり」と打電した。



ミッドウェー攻略部隊のため制圧を間に合わせなければならず、米艦隊はハワイにいるという連合艦隊の敵情判断に従って行動していた南雲は帰還中の偵察機からも報告がないため、山本五十六連合艦隊から米艦隊迎撃のために待機を指示されていた残り半数の攻撃隊を兵装転換して使うことに決定した。



草鹿参謀長によれば「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。



事実状況が許す限りそうした。



しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。




後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」という。



現地時間7:15から始まった陸上攻撃兵装への転換は第一航空戦隊にしか出されず第二航空戦隊は未だ無装備で待機していた。



その後7:40に南雲に7:25発の利根4号機からの敵艦隊発見の報が届き7:45に兵装転換一時中止の命を出すが、この時点で赤城で6機、加賀で9機しか兵装転換はしていなかった。



8:30分に南雲が敵艦隊攻撃を決意した結果、第一航空戦隊の計15機の艦攻の再雷装と第二航空戦隊の待機機体の対艦兵装への装備開始。




それを格納庫内で進めると同時に飛行甲板にミッドウェイ空襲隊を着艦させるという慌ただしさであった。




しかし偵察機が予期せぬ米軍機動部隊発見の報告があり、山口多聞少将(第二航空戦隊司令官)から即時攻撃の意見具申がされた。




しかし南雲艦隊上空にミッドウェー島攻撃を終えた第一次攻撃隊100機が帰還し着艦収容を待っていた。




またこの時点では飛行甲板に攻撃隊の準備はされていなかったため山口の具申は不可能であった。




そのため南雲は帰還部隊の収容を優先させた。吉岡忠一航空参謀によればこの判断は司令部で何の問題もなく決まったという。





一航艦はミッドウェー島基地航空隊の空襲を撃退し、米軍機動部隊から発進したTBD デバステーター雷撃機の攻撃も連続で全て撃退した。



南雲は鈍重な旗艦「赤城」の操艦を青木泰二郎艦長に代わって自ら行い、魚雷6本を回避してみせた。



直接の操艦は艦長の職掌であり職掌の分担を犯すものではあるが、その腕には源田実航空参謀も舌を巻いたという。



しかし、その直後に米軍機動部隊艦載機による急降下爆撃を受けて、主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)が炎上した。



南雲は炎上する空母「赤城」に残ろうとしたが、草鹿らの説得で艦橋前面の窓から脱出、軽巡洋艦「長良」(第十戦隊旗艦、木村進少将)に移動した。残った飛龍も撃沈され、空母4隻を失い敗北した。




その後も南雲は夜戦を実施する気勢であったが、敵空母3,4隻の報告を受けあきらめて退避した。




山本は南雲と草鹿の責任を追及せず、復仇の機会を与えるとして1942年(昭和17年)7月14日、空母機動部隊として再編成された第三艦隊長官と参謀長に、それぞれ南雲と草鹿を就任させるよう取り計らった。




しかし南雲、草鹿以外の幕僚は全て降ろされまた士官も転出させられた。




南雲はミッドウェー海戦の報告書に未熟なパイロットが多かったこと、事前に合同訓練が実施できなかったこと、編隊爆撃訓練も実施できなかったことなどを問題点として挙げている。






第三艦隊の南雲司令部は、通信参謀中島親孝によると高田利種先任参謀が計画や作戦指導の中心だったという[。



第三艦隊は空母六隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳と飛鷹、隼鷹、龍驤)と戦艦2隻、巡洋艦4隻、長良を旗艦とする駆逐艦16隻の合計29隻の大艦隊の予定であったが、1942年(昭和17年)8月、米軍がガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いが始まり、8月23日南雲は第三艦隊の現有戦力(「翔鶴」、「瑞鶴」、「龍驤」、戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦8隻)を率いて支援に向かった。




当時南雲艦隊は第二艦隊司令官近藤信竹中将の指揮下にあり、打ち合わせすら行っていなかったので両艦隊の行動は混乱してた。



南雲は南下し空母決戦を決意していた。




24日敵の爆撃があり第二次ソロモン海戦が開始し25日南雲は索敵し発見した空母へ攻撃隊を出撃させた。



南雲艦隊は龍驤から戦闘機15機を攻撃に向けたため戦闘機9機で敵攻撃隊迎撃にあたることになり、龍驤は魚雷を受けて沈没した。





南雲艦隊は「エンタープライズ」を大破させたがこれは徹夜の修理で航行し戦線離脱した。



また南雲艦隊は搭乗員の4割を失った。




10月26日第三艦隊が敵偵察機から爆撃を受け南太平洋海戦が発生した。



敵空母部隊を発見できず南下、北上を繰り返していた際、連合艦隊司令部からの南下命令を受けた。



この後南雲は反対していた参謀長草鹿龍之介を説得して南下した。



艦爆隊石丸豊大尉が米空母「ホーネット」の甲板に体当たりし行動不能に追い込み、空母「エンタープライズ」を中破、戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷という戦果をあげる。




しかし南雲艦隊も米艦載機SBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃で空母「翔鶴」(旗艦)、「瑞鳳」、巡洋艦筑摩が中破する。



「翔鶴」が通信能力を喪失した為、艦隊指揮に支障がでるようになり全艦隊で戦場を一時離脱する。



駆逐艦「嵐」(第四駆逐隊司令艦、有賀幸作大佐)に通信を代行させるがその後受信機は回復し送信のみを代行させている。



その後健在な空母「瑞鶴」を敵艦隊に向かわせ駆逐艦「照月」への移乗と旗艦の「瑞鶴」への変更を進めるが敵艦隊攻撃の指揮が続いたため受信機能の高い「翔鶴」を降りるのが長びき、退艦が航空攻撃終了後の19時半頃となり前線到着が遅れた。



その間、前進部隊指揮官近藤信竹中将が指揮下の角田覚治少将率いる第二航空戦隊を急遽機動部隊に編入させたので11時40分に2航戦に対して敵艦隊攻撃を命令している。



2航戦の空母「隼鷹」の航空攻撃で「ホーネット」は完全に行動不能となり、最終的に近藤直率の第二艦隊が撃沈している。



日本海軍は空母3隻・戦艦1隻・巡洋艦2隻・駆逐艦1隻を撃沈したと誤認し、大本営発表を行った。



1942年11月11日佐世保鎮守府司令長官。



1942年(昭和17年)11月17日、参内して昭和天皇に奏上を行う。



1943年(昭和18年)6月21日呉鎮守府司令長官。ケ号作戦に参加して大破した駆逐艦「磯風」が呉工廠に帰還した際、南雲忠一が視察に訪れた。




南雲は「これほど損傷した艦を見捨てもせず連れ帰ってくれた」と乗組員を賞賛した。




さらに磯風乗組員(士官、下士官兵問わず)と彼らの妻に、山口県湯田温泉へ2泊3日の慰安旅行を贈った。




1943年10月20日第一艦隊司令長官。




第一艦隊は1944年(昭和19年)2月25日に解隊されたため、南雲は最後の第一艦隊司令長官となった。




中部太平洋方面艦隊司令長官




1944年(昭和19年)3月4日中部太平洋方面艦隊司令長官兼第十四航空艦隊司令長官。



鎌倉市の自宅で家族と最後の時間を過ごした後、サイパン島に着任した。



出征する壮行会の席上、「今度という今度は白木の箱か男爵さまだ」と述べた。



矢野参謀長


なお同席した矢野参謀長は陽気な人柄で知られていたがこの席では沈みきった表情であった。



家族にも、鶴岡八幡宮に詣でたあと「こんどは帰らない」と告げている。



サイパンにいた陸軍特志看護婦(三浦静子。当時18)は3月ごろ水交社で南雲と知り合い、テニスを楽しんだという。



浴衣姿でビールを飲んでいた老将校に南雲とは知らず断りをいれて友人とテニスを始めたところ、体操服に着替えた南雲もテニスに加わった。



腕前は下手だったが、若手士官や三浦達とテニスを楽しんだという。



だが米軍の上陸直前には、緊張と心労のためすれ違う三浦に気付かなかったという。




3月海軍乙事件で古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職し、後任として豊田副武大将が就任を求められたが、「自分はご免こうむる」「他に適任者がいる」と暗に南雲を指名した。







6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸してくると迎撃戦闘の指揮にあたった。





南雲は連合艦隊の救援を待ったが、小沢治三郎中将が率いる第一機動艦隊は6月19-20日のマリアナ沖海戦で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を喪失して完敗、サイパン島救援は絶望的となった。



1944年7月5日サイパン守備部隊の勇戦に対する天皇から御嘉賞の言葉があり、それを南雲に伝える電文をもって陸海の両総長はサイパン放棄による決別の言葉とした。



これを読んだ南雲は6日最後の命令である「サイパン守備部隊将兵にあたふる命令」を中央に打電する。



午後10時軍令部、連合艦隊などに「之にて連絡止む」と打電し連絡を絶った。



南雲は、「サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。」と訓示を行った。




約20日間の抗戦の末サイパン島守備軍は玉砕、南雲も戦死した。



最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午後10時ごろ、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。



日本の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官に後頭部を撃たせた。



南雲の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」だった。




享年57。




死後海軍大将に昇進。





戦前の南雲は「水雷戦術の第一人者」「猛将」として知られ、海軍内では数々の武勇伝が伝えられる人物だった。



操艦の見事さを伝える逸話もある。



太平洋戦争では空母艦隊長官を歴任するが、本人の経歴や資質から見て第二艦隊などの水上艦部隊の方が適任であり、この人事は海軍人事行政の弊であったという指摘もある。



松島慶三(第三戦隊参謀)によれば、着任当初、松島が信号兵に艦隊運動の命令だけを出して南雲司令官に報告したところ「現場を確かめろ(実際の二番艦の動きを見ろ)」と叱責された。



部下への教育は厳しかったが、基地では芸者が5-10人も面会に訪れ、また雲水が押しかけてくることもあり、司令官としては異色だった。



南雲は酒豪で喫煙家だったが、旅行に同行した松島慶三が酒が苦手で喫煙しないと「たまの禁煙はかえって体にいいだろう」と酒も煙草も飲まず、吸わなかったという。



松島慶三は、南雲から厳しく鍛えられ、様々な事を学んだと感謝している。


源田実


源田実(一航艦参謀)によれば、南雲は純粋な武人で責任感が強かった、これが誤解を生んでいるのだろうという。



淵田美津雄中佐(第一航空艦隊総飛行隊長)は、南雲中将は、大佐時代から第1水雷戦隊司令官時代までは、いわば満点を与えられるほどの人物であったが、開戦後は溌剌颯爽たりし昔日の闘志が失われ、何としても冴えない長官であった。



早くも耄碌したのではなかろうかと感ずる程であった。



作戦を指揮する態度も退嬰的であったと評価している。



山口多聞中将は南雲長官は一言も云わず参謀長、先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋ぞろいであると話していた。



反面、開戦前の1941年4月から真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦を経て1942年11月まで参謀長を務めた草鹿龍之介は、良い上司であり、また「剽悍剽馬」の如しであるとしながらも繊細で人情に厚く、部隊運用についても優れていたと評し、ただし航空戦について不慣れであったため、本来の手腕の発揮を阻害したのだろうとしている。



努力家で、上野駅に到着した老母を海軍中佐の軍服のまま背負って歩くなど家族思いでもあった。



時に羽目をはずすこともあり、軍令部第二課長時代、伏見宮博恭王軍令部総長の赤坂園遊会で酒に酔い、外国武官や家族達300名の前で池に放尿し、目撃した中瀬泝(軍令部第七課)は仰天したという。




長男には南雲進海軍少尉がいる。(1944年12月4日、駆逐艦「岸波」にて戦死。死後海軍中尉に昇進)