南雲 忠一 海軍大将  その1 | 戦車兵のブログ

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南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年(明治20年)3月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。


海兵36期。


最終階級は海軍大将。


サイパン島において自決。





山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩御扶持方(中士階級)南雲周蔵、志んの次男として生まれる。


6人兄弟姉の末子であった。


米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。


海軍兵学校では三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与された。


1908年(明治41年)、海兵36期を191人中5番の成績で卒業。


海軍少尉候補生となり軍艦「宗谷」乗組。


1909年(明治42年)9月2日軍艦「日進」乗組。


12月1日軍艦「新高」乗組。


1910年(明治43年)1月15日海軍少尉に昇進。


5月5日軍艦「浅間」乗組。


1911年(明治44年)4月20日海軍砲術学校普通科学生。


8月4日海軍水雷学校普通科学生。


12月1日海軍中尉に昇進、軍艦「安芸」乗組。


1913年(大正2年)5月24日駆逐艦「初霜」乗組。


12月1日海大乙種学生。


1914年(大正3年)9月27日海軍水雷学校高等科学生。


12月1日海軍大尉に昇進。軍艦「霧島」艤装員に着任。


1915年(大正4年)12月3日駆逐艦「杉」乗組。


12月22日海軍へ結婚願を提出し翌年8月28日に認可された。


1916年(大正5年)12月1日第四戦隊参謀。


1917年(大正6年)3月28日第三特務艦隊参謀。


12月15日駆逐艦「如月」駆逐艦長。


1918年(大正7年)1月21日夜間演習中に帆船「宮島丸」と衝突し2日間の謹慎を命じられる。





1918年12月1日海軍大学校甲種学生18期生となる。


1920年(大正9年)海大甲種第18期を次席で卒業。


1920年(大正9年)12月1日 海軍少佐に昇進。


樅型駆逐艦「樅」駆逐艦長。



1921年(大正10年)11月1日第一水雷戦隊参謀(旗艦「龍田」)。




艦隊派


1922年(大正11年)12月1日軍令部第一斑第一課勤務。


5日海軍軍政本部技術会議議員。


1923年(大正12年)9月8日海軍震災救護委員会委員。


11月10日海軍大学校教官。


1924年(大正13年)12月1日海軍中佐に昇進。


海戦要務令改正委員会委員。


1925年(大正14年)6月1日欧米各国へ出張。


1926年(大正15年)2月20日帰国。


3月20日砲艦「嵯峨」艦長。


10月15日砲艦「宇治」艦長。


1927年(昭和2年)11月15日海軍大学校教官。


1929年(昭和4年)11月30日海軍大佐。軽巡洋艦「那珂」艦長。


1930年(昭和5年)12月1日第十一駆逐隊司令。



堀悌吉


この頃、南雲は艦隊派(軍縮条約反対派)の論客として知られ、山本五十六や井上成美と対立し、その政治的な活動は外部にも知られていた。



1930年ロンドン会議後に南雲は山下知彦らと同郷の先輩である左近司政三を含む条約派に辞職を迫り後の大角人事に関係した。



1931年(昭和6年)10月10日軍令部第一斑第二課長。




条約派の堀悌吉を予備役に追いやり、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加中の山本五十六は堀悌吉と親睦が深かったがそれを阻止出来ず南雲を許さなかったとされるが、海軍報道部部員として海軍次官時代の山本に3年接した松島慶三は、当時の南雲にそのような実力があったか疑問であり、また山本もそこまで狭量の人物ではなかったという。


井上成美



軍令部の権限拡大を図った「軍令部令及び省部互渉規定改正」では、海軍省軍務局第一課長の井上成美と激しく対立し、酒気を帯びていた際、井上に対し「貴様なんか殺すのは何でも無いんだぞ。
短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ」と発言した。



1932年(昭和7年)2月16日国際連盟支那調査海軍準備委員会委員。


2月25日支那事変軍事調査委員会委員。この年起こった五・一五事件を受けて南雲が作成した『五・一五事件の解決策』と題する文書には、被告の死刑または無期を避けること、ロンドン条約に統帥権干犯の疑義を生じさせた重要責任者に適当な処置をとることなどを求めている。


ただしこの文書がどのように使用されたかは不明である。


1933年(昭和8年)8月4日航空戦教範起草委員会委員。

伏見宮博恭王


1933年11月15日重巡洋艦「高雄」艦長。


このころ条約からの脱退を求めて連合艦隊の艦長、航空隊司令らの署名を集めた。


この署名は加藤寛治の使嗾があったとされ、最終的に海軍大臣大角岑生に提出された。


この署名の写しは伏見宮博恭王に提出され、伏見宮は懸念を示し加藤及び当時の連合艦隊司令長官末次信正に注意を与えている。


1934年(昭和9年)11月15日戦艦「山城」艦長。


1935年(昭和10年)11月15日海軍少将に昇進。


第一水雷戦隊司令官。


1935年(昭和10年)5月、土佐沖で戦艦戦隊と有地十五郎少将が指揮する第二水雷戦隊との演習があった際、南雲が艦長を務める旗艦/戦艦「山城」と軽巡洋艦「神通」が衝突しかけた。


板倉光馬(戦艦「扶桑」勤務だが、「扶桑」が赤痢患者発生のため不参加となったため「山城」艦橋で観戦)によれば、近藤信竹参謀長が取り舵をするよう連呼、すると南雲は「参謀長には指揮権はない!」と大喝、「山城」は面舵に転舵して両艦は衝突を免れた。


1936年(昭和11年)7月、板倉(重巡洋艦「青葉」航海士)は同期生9名と佐世保の料亭でクラス会を開き、混雑していたため芸者を借りようと、奥座敷で飲んでいた南雲ら高級将校達の元に行く。


南雲は板倉を一喝したが、その後は板倉ら若手将校達を宴会の席に招いてはしゃいでいたという。


1936年(昭和11年)12月1日第八戦隊司令官。


1937年(昭和12年)11月15日海軍水雷学校校長。海軍軍政本部技術会議議員。


1938年(昭和13年)11月15日第三戦隊司令官。


1939年(昭和14年)10月14日主力艦艦橋研究委員会委員。


11月15日海軍中将に昇進。


1940年(昭和15年)11月1日海軍大学校校長。