いかづち (護衛艦・2代) | 戦車兵のブログ

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1999年6月24日、海上自衛隊のむらさめ型汎用護衛艦「いかづち」(DD-107)が進水した日。


いかづち(ローマ字:JS Ikazuchi, DD-107)は、海上自衛隊の護衛艦。


むらさめ型護衛艦の7番艦。


旧海軍の雷型駆逐艦「雷」、吹雪型駆逐艦「雷」、海上自衛隊のいかづち型護衛艦「DE-202 いかづち」に続き、「雷」「いかづち」の名前を持つ日本の艦艇としては4代目。




「いかづち」は、中期防衛力整備計画に基づく平成8年度計画4,400トン型護衛艦2236艦として、日立造船舞鶴工場で1998年2月25日に起工し、1999年6月24日に進水、2001年3月14日に就役した後に第1護衛隊群第5護衛隊に配属され、横須賀に配備された。



2002年、環太平洋合同演習 (RIMPAC)に参加。


2003年2月3日から3月28日にかけて輸送艦「しもきた」とともにテロ対策特別措置法に基づく海上輸送部隊としてタイ王国の建設用重機等の輸送任務に従事した。




2003年3月13日、第1護衛隊群第1護衛隊に編入された。


2005年7月26日、テロ対策特別措置法に基づき、補給艦「はまな」と共にインド洋に派遣、同年11月まで任務に従事し、12月27日に帰国した。


この派遣以降は2隻派遣体制となる。



2008年3月26日、護衛隊改編により第1護衛隊群第5護衛隊に編入された。


2008年4月20日、新テロ特措法に基づき、補給艦「ましゅう」と共にインド洋に派遣、同年7月まで任務に従事し、9月4日に帰国した。



2009年11月9日、新テロ特措法に基づき、補給艦「ましゅう」と共にインド洋に派遣されたが、2010年1月15日に新テロ特措法が失効したことに伴い活動が終了し2010年2月6日に東京港晴海埠頭に帰国した。



2012年5月11日、第12次派遣海賊対処行動水上部隊としてソマリア沖に向けて横須賀から出航、僚艦となる「DD-157 さわぎり」とは途中で合流し約3週間後から任務を開始し、同年7月1日には日中印の三カ国協同による護衛編隊が組まれる。


8月30日にはアタランタ作戦を実施している作戦部隊司令官エンリコ・クレデンディーノ伊海軍少将一行の訪問を受ける。


同年10月25日、横須賀に帰港した。



2015年3月18日、第21次派遣海賊対処行動水上部隊として「DD-101 むらさめ」と共にソマリア沖・アデン湾に向けて横須賀基地から出航する。


2011年3月16日、編成替えにより第1護衛隊群第1護衛隊に編入された。定係港は横須賀である。



旧帝国海軍二代目駆逐艦「雷」の活躍は有名だ。


スラバヤ沖海戦で重巡洋艦「足柄」、「妙高」、「那智」、「羽黒」、駆逐艦「山風」、「江風」と共にイギリス重巡洋艦「エクセター」、イギリス駆逐艦「エンカウンター」、アメリカ駆逐艦「ポープ」を撃沈した。


明けて3月2日、駆逐艦長工藤俊作中佐の指示により、「電」と協力して、沈没した「エンカウンター」と「ポープ」の生存者422名の救助を行い、後にオランダの病院船に引き渡している。


海戦後はフィリピン方面に移り、3月17日にはルソン島南方のタヤバス湾で「暁」および「響」とともにアメリカ潜水艦「パーミット」(USS Permit, SS-178) を発見して2日間にわたり攻撃。


3月26日に呉に帰投したのち横須賀に回航され、4月4日から9日まで三菱横浜船渠で修理ののち、横須賀でも修理が行われた。


修理後は4月19日に「暁」および「響」とともに横須賀を出港し、5月20日付で北方部隊所属となる。


5月29日、「雷」は僚艦とともに陸奥湾川内を出撃してアリューシャン作戦に参加。


7月5日、アメリカ潜水艦「グロウラー」 (USS Growler, SS-215') の攻撃により第十八駆逐隊の駆逐艦「霰」が沈没して「霞」と「不知火」が大破する惨事があり、当時「那智」を護衛中であった「雷」が艦首を亡失した「霞」の曳航にあたることとなった。


7月22日にキスカ島に到着後、曳航索を推進器に巻き込むという事故がありながらも7月28日に「霞」を逆引きで曳航してキスカを出港し、8月3日に幌筵島片岡湾に到着。



「電」に「霞」の曳航を託して7月5日に片岡湾を出発し横須賀に向かったが、8月8日夜に見張り員の誤認が元で銚子近海で座礁事故を起こす。


軽い浸水などがあったものの重量物の移動後に後進をかけて離礁に成功し、大事には至らなかった。


やがてガダルカナル島の戦いが緊迫化するに伴って、8月28日付で第三艦隊配属となり、南方へ回ることとなった。





1944年(昭和19年)4月、「雷」はサイパン島およびメレヨン島への輸送に従事する特設運送船「山陽丸」(大阪商船、8,360トン)の護衛を行う。


アメリカの潜水艦「ハーダー」は魚雷を深度6フィートに調整の上、2本ずつ二度にわたって計4本発射し、そのうちの2本が「雷」に命中。


魚雷が命中した「雷」は黒煙と火災に包まれて30度に傾斜し、「ハーダー」は急速に右に舵を切ったあと減速し、潜望鏡からこの状況を撮影した。


船体が二つ折れとなった「雷」は、脱出を図った乗員を巻き込みつつ4分ほどで沈没した。


沈没位置は北緯10度13分 東経143度31分と記録されている。


ディーレイ少佐はこの攻撃について"Expended four torpedoes and one Jap destroyer!"(4本の魚雷とジャップの駆逐艦を消費した!)と記し、この言葉はアメリカ海軍戦史に残る印象的なフレーズとして追加された。


「雷」乗員は駆逐艦長生永邦雄少佐以下238名全員が戦死した。


6月10日除籍。


なお、「雷」を沈めた「ハーダー」もまた1944年8月24日に第22号海防艦に撃沈されている。


「いかづち」はそういう名を受け継いでいる。