壕内は60度を超える暑さ… 持久戦支えた縦横無尽の地下壕のすさまじさ | 戦車兵のブログ

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かつて死闘を繰り広げた硫黄島。


硫黄島は東京都である。


硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう」、海軍の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた。



アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島は米軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。



2007年3月に小笠原村議会では、第1回議会定例会の最終日に、同島の呼称を「いおうとう」に統一する「硫黄島の呼称に関する決議案」を提出し採択された。



以下産経ニュースより転載







 昭和20年2月に米軍が上陸し、日米合わせて2万人以上が戦死した硫黄島(東京都小笠原村)。



安倍晋三首相が4月末に米国を訪問した際の米上下両院合同演説の中で、当時米海兵隊中尉として戦ったローレンス・スノーデン海兵隊中将と、日本軍の硫黄島守備隊司令官だった栗林忠道中将の孫、新藤義孝衆院議員を紹介したことでも知られる。



普段の立ち入りは認められていないが、今月14~16日、年に一度行われている旧島民の訪島事業に同行し、70年を経た激戦の地のいまを取材し、当時に思いをはせた。(橋本昌宗)





繁栄謳歌(おうか)した南洋の島



 硫黄島は東京から南に約1250キロの位置にあり、北硫黄島、南硫黄島からなる「火山列島」の中心にある。



現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地があり、基地関係者以外の民間人の立ち入りが制限されている。



南西の端にある摺鉢(すりばち)山(標高169メートル)が最も高い場所で、全体的に平坦(へいたん)な地形をしている。



このため、本土とグアム、サイパンの中間で空港を設置できる島として軍事上の重要拠点となった。




 島のあちらこちらでは噴煙が上がり、地面の隆起が続くなど火山活動は活発だ。




硫黄の採掘や、亜熱帯性の気候を生かしたパイナップルやサトウキビ、香水の原料となるレモングラスなどを東京に出荷していた。



 旧島民によると、島は金銭的に豊かで、戦中に物資が不足する中でも、普通に白米を食べることができたという。



戦前には島の東部を中心に1千人以上が生活していた。




 旧日本軍が昭和19年7月にサイパンを失うと、サイパンを含むマリアナ諸島からは爆撃機「B29」が本土への爆撃のため出撃するようになる。


米軍は爆撃機の中継基地や、爆撃機の護衛機の基地として、硫黄島に着目した。





18キロにも及ぶ地下壕




 硫黄島の守備隊を率いた栗林中将は、サイパンの戦いなどで行われた敵の上陸時をたたく作戦をとらず、内陸部に深く引き込んでゲリラ戦を展開した。



そのため、全長18キロ、出入り口は1千カ所にも及ぶという地下壕を建設。



20年2~3月にかけて日米双方に2万人以上の戦死者を出す死闘を繰り広げた。




 島の北部には、負傷者を収容していたとみられている「医務科壕」がある。



ここは身をかがめないと入れないほかの壕とは違い、中の高さは約2メートルほどある。




 通路が複雑に交差している場所もあるが、先に進めばつながっていることが多い。




壕内には、兵士たちが使っていたとみられる水を入れるドラム缶や、やかんが残る。




 しかし、何よりも特徴的なのはその暑さだ。


通常、夏場の洞窟であれば外よりもかなり涼しいものだが、硫黄島の壕内は60~70度にも達する。




 硫黄島そのものが亜熱帯にあり、外にいても気温、湿度ともに本土とは比べものにならない。




その上、壕の中は火山活動の活発な島の地熱がこもるため、奥に行けば行くほど、炎天下の駐車場に止めた車の中にいるような息苦しいほどの暑さがまとわりついてくる。




 隣で見学していた小笠原村の男子中学生は「けがをしてここに入ったらもっと体調が悪くなりそう…」と吹き出す汗をぬぐった。




「奥にいかないように。出てこられなくなる」


 地下壕はここだけではない。島を歩けばあちらこちらで口を開いている。


 栗林中将が司令部にしていたことから「栗林壕」とも呼ばれる地下壕もある。



入り口はほぼ真下に降りていくような角度で、中に入るとコンクリートで覆われた執務室がある。


 内部は広大で迷路のようになっており、遺族らで組織され島で遺骨収集に当たる「硫黄島協会」の男性は「絶対に奥に行かないように。出てこられなくなる」と注意を促していた。



男性によると、壕の中で遺骨を収集するためにしゃがんでいると、どこにも触れていないのに尻やひじなどをやけどすることもあるという。




 島北部にある大阪山の地下壕では、兵士たちが使っていたとみられる皿や茶碗(ちゃわん)、ガラス製の瓶などもあった。


中には、米軍の火炎放射器で焼かれ、炭のようになって何なのかわからないものもあり、戦いの激しさを物語る。


最後の突撃を敢行したとされる壕には、割れたヘルメットが集められていた。




 栗林中将は玉砕覚悟の「バンザイ突撃」を禁じ、地下壕の持久戦に持ち込んだ。


この壕で生活し、米軍の絶え間ない爆撃や艦砲射撃に耐え、飢えとすさまじい熱気にも耐えて戦った兵士たちのことを思うと、自然と頭が下がった。


 参加した旧島民らの中には、壕の入り口付近に水をまいて手を合わせる姿もあった。


(産経ニュース)



現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。


しかし、大東亜戦争の激戦地として知られ、旧島民らの慰霊などのための上陸は例外として許される。


このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。


日本最大の心霊スポットと言う人もいる。


硫黄島は鎮魂の島だ。