ハミの虐殺(ハミのぎゃくさつ、Ha My massacre)とはベトナム戦争中の1968年2月25日に南ベトナムクアンナム省ハミ村で大韓民国海兵隊によって非武装の民間人135人が虐殺された事件。
1968年2月12日、韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)は南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で民間人虐殺事件を起こし、その日のうちにアメリカ軍・南ベトナム軍によって犯行が明らかにされていたが、2月25日に再び、同じクアンナム省のハミ村で女・老人・子供・135人を虐殺した。
3人だけを残して全員殺害された村もあった。
殺害方法は村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけたりして実行された
フォンニィ・フォンニャットの虐殺やタイビン村虐殺事件など、このような事件がたびたび引き起こされ、9000人以上が韓国軍の犠牲になったとも、あるいは、30万人を超す犠牲者数だったとも言われている。
このため、アメリカ軍内部では韓国軍を完全な後方部隊とするかベトコンが完全に支配していて誰を殺しても問題とされない地域に配置転換するべきであるとした検討が行われた。
ベトナムではドイモイ政策以後、各地でベトナム戦争中の虐殺記念碑(追悼碑、憎悪碑)が設置されてきた。
1999年9月、韓国軍青龍部隊退役兵がハミ村を訪問し、記念碑資金25000ドルの寄付を申し出た。
大理石板でできた記念碑は2000年11月に完成した。
碑文
碑文には、次のように刻まれた。
『青龍部隊の兵士が135人を殺した。
ここは血に染まり、砂と骨が入り混じり、
家は焼かれ、火に焼かれた死体をアリがかじり、
血のにおいが満ち満ちていた。
爆風が吹き抜けると、さらに悲惨だった。
破壊された家では年老いた母や父が呻きながら死に、
子どもたちは恐怖におびえた。
逃げた人は銃撃されて死に、
子どもは死んだ母親のもとに這って行きお乳を吸った。
もっとひどいのは、戦車で遺体を踏みつぶしたことである。
(…)
過去の戦場はすでに苦痛が和らぎ、
韓国人がここを再訪し、恨めしい過去を認め、謝罪した。
そして赦しのうえに、この石碑を建てた。』
韓国による全文削除
しかし、このように書かれていた村民によって刻まれた虐殺行為についての碑文を知った韓国退役兵らは、韓国政府を通じて修正削除を要求した。
ハミの村民は「碑文の内容まで干渉することは受け入れられない。これは我々の歴史で過去であり真実だ」と削除要求に対して拒絶した。
韓国政府はハノイの韓国大使館によって村民に圧力をかけ、ベトナム政府に地方自治体に村民を説得するよう指示した。
さらに地元の村の幹部を韓国に招待して接待を行い、懐柔した。
ハミの村民は抵抗を続けたが、「歴史を歪曲して記録するより、記録しないほうがいい」として全文削除を決定し、碑文の上に蓮の絵の石板を重ねた。
ハミの村民は「これこそ歴史にフタをすることだ」と述べたという。
おぞましいね韓国って・・・・。