ロサンゼルスの戦い | 戦車兵のブログ

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1942年2月25日、第二次世界大戦の「ロサンゼルスの戦い」と呼ばれる戦闘?があった日。



サンタモニカ上空を飛行する物体を米軍が日本軍機と誤認し対空砲火を浴びせ、ラジオで中継され、西海岸の住民がパニックになった事件だが、日本軍はそういう作戦を行っていない日本軍を恐れた間抜けなパニックだった。



そういえば「1941」ってスティーヴン・スピルバーグ監督の作品あったな、イ17によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所攻撃や、イ26によるカナダのバンクーバー島攻撃など、太平洋戦争中に遂行された日本海軍潜水艦による一連のアメリカ本土砲撃、そして日本軍の攻撃に対するアメリカ人の恐怖が引き起こしたロサンゼルスの戦いをモチーフにした作品だった。



ロサンゼルスの戦い(ロサンゼルスのたたかい、英語:Battle of Los Angeles)は、第二次世界大戦中の1942年2月25日に、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市で起きたアメリカ陸軍による軍事作戦。



日本海軍の艦載機による空襲が行われたと誤認したアメリカ陸軍が対空砲火を中心とした「迎撃戦」を展開、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸のみならずアメリカ全土をパニック状態に陥れた。



しかし実際に日本海軍がそうした空襲を行った記録はなく、騒動の真相は未だ闇の中にある。



アメリカ本土砲撃作戦




1941年12月に日本陸海軍によって行われたマレー作戦と、それに続く日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃以降、日本軍はアジアおよび太平洋戦線において、アメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていた。




この様な状況下で日本海軍は、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた潜水艦による通商破壊戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈し、中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈する他、浮上して砲撃を行い撃沈するなど、開戦以来日本海軍の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で頻繁に行われていた。




さらに日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として1942年2月23日午後7時(現地時間)に「伊号第一七潜水艦」(以下「伊17」とする)によりカリフォルニア州サンタバーバラ郡のエルウッド石油製油所(リッチフィールド油田施設)への砲撃作戦を行った。



砲撃による被害は少なかったものの、これはアメリカにとっては1812年戦争以降初めて本土に受けた攻撃であり、警戒を呼び起こすことになった。



同年12月4日、サンタバーバラ空港が海兵隊の基地(w:Marine Corps Air Station Santa Barbara)として開港し、現在カリフォルニア大学サンタバーバラ校がある場所に海兵隊の宿舎が設置された。



日本軍上陸に対する恐怖




これらの日本海軍艦艇による度重なるアメリカ本土への攻撃を受けて、当時のアメリカ政府上層部は、「日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への上陸計画が開戦直後から1942年の初頭にかけて行われる可能性が非常に高い」と分析していた。



実際に開戦直後にフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本陸軍部隊によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診したものの、それに対して陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として、日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、実際に開戦後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。



また、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等のアメリカ西海岸沿岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止する防潜網や機雷の敷設を行った他、その他の都市でも爆撃を恐れて防空壕を作り、さらには防毒マスクの市民への配布や灯火管制、警察や市民による沿岸警備などを行っていた上に、黄色人種である日本人と日系アメリカ人に対する人種差別を背景にした日系人の強制収容までが行われていた。




飛行物体飛来



そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、2月24日に日本海軍艦艇によりサンタバーバラに対する砲撃が行われ、これに対してアメリカ軍が何も反撃をできなかっただけでなく、石油施設に被害を受けたことは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に衝撃を持って受け止められ、陸海軍ともにアメリカ本土に対する再度の攻撃に対して警戒態勢を引いていた。



しかしその後、日本海軍艦艇によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、24日の午後10時22分には、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなった。



しかし警戒解除のわずか3時間後の25日の午前1時44分に、ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知した。



この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入った。


対空砲火




その後飛来数は「25機」と報告され、さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず多くの市民からも目視されたため、陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始した。




ロサンゼルス市の沿岸部上空をサーチライトで照らされながら飛来する飛行物体に対して、陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に約1430発の高射砲を発射したものの、飛行物体には命中しなかった。



さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行ったものの飛行物体の迎撃に失敗してしまう。



その後も飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行し、その後目視からもレーダーからも消えてしまった。



ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の「日本軍機の空襲」と、それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、即座にCBSなど全国ネットのラジオ局でこの光景が中継された。



さらに、多くの市民によって「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、交差したり追いかけっこをしたりしていた」などの詳細な目撃談も報告されたほか、サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影された。




また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあった。



陸海軍間の対立




この様に、飛行物体が飛行する様を多くの軍民が観察したのみならず、飛行物体に対して陸軍が対空砲火による攻撃を行い、その一部始終を多くの市民やマスコミが観察し、さらには多数の飛行物体の写真が撮影されていたものの、事件の起きた25日の午後にはフランクリン・ノックス海軍長官が、「日本海軍機と思われる飛行物体の飛来とその後の警報は誤報であり、攻撃も確認されていない」と発表した。




しかしこれに対し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は26日に会見し「ロサンゼルス市上空で、1時間にわたって15機の航空機が9000フィートから18000フィートの高度を上昇と下降を繰り返していたことを確認している」と反論した上に、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長は、ルーズベルト大統領に向けた報告書内で、「15機に上る航空機の飛来が確認されたものの、空襲などの攻撃による被害がなかったことから、日本軍が(アメリカ西海岸地域の)対空砲の位置を暴くとともに、灯火管制を敷かせることで生産性を低めるために偵察機を飛ばしたと推測する」との自らの意見を述べるなど、陸海軍間で対立が見られた。



国防総省はこの事件の記録があることを長年否定し続けたが、情報公開法によりこの情報が初めて日の目を見た。




1942年2月26日付 情報公開法 マーシャル陸軍参謀総長の覚書



ロサンゼルス上空の未確認飛行物体事件を大統領へ伝える機密文書(陸軍総司令部よりの情報)




1.未確認の航空機は、合衆国陸軍または海軍のものではない。おそらくロサンゼルス上空を飛行したものとみられ、第37沿岸砲兵旅団(対空砲兵中隊)の複数の小隊が、午前3時12分から4時15分までの間砲撃した。


これらの部隊は1430発の弾薬を使用した。




2.関係した未確認航空機は15機に及ぶらしく、公式の報告書によれば「非常に遅い速度から時速200マイル(約322Km/h)に至るさまざまな速度で、9000-18000フィート(約2743m-5486m)に及ぶ高度で飛行した。




3.爆弾はまったく落とされなかった。



4.わが軍の戦闘犠牲者はなし。



5.これらの未確認航空機は1機も撃墜されなかった。




6.当時活動中のアメリカの陸・海軍航空機はなかった。




結論



第二次世界大戦後明らかになった日本海軍の記録では、この日に日本海軍の潜水艦とその艦載機によるロサンゼルス市一帯への空襲は記録されておらず、また「15機が飛来」や「25機が飛来」と報告されていたものの、当時アメリカ西海岸沿岸に展開していた航空母艦はなく、さらに同地域で活動していた日本海軍の潜水艦は10隻程度で、その艦載機を全部足しても15機に足らなかった。



他にも、「日本軍が飛ばした爆弾付き気球(風船爆弾)ではないか」という報道もなされたものの、当時まだ風船爆弾は実用化されていなかった。




さらに、当日に陸軍第205防空部隊が気象観測気球をサンタモニカで上げていたことが判明したことや、その後も各戦線において日本軍に敗北を続けていた上に、本土上陸も危惧される中、陸海軍ともにこのような大きな被害がない事件の分析に人員を取られるだけの余裕がなくなっていたこともあり、最終的に「24日の日本海軍の潜水艦によるサンタバーバラ砲撃とその後の警戒態勢を受けて過敏になっていた陸軍部隊が、この気象観測気球を日本軍機と見間違え過剰対応した事がこの『戦い』の発端である」と結論付けられこの事件は幕を閉じることとなった。





しかし、陸軍のレーダー上でサンタモニカよりはるかに離れた地点から上昇と下降を繰り返しながら飛来する飛行物体が観察されたうえに、目視においても多数の兵士や民間人が赤く光る飛行物体を確認し、撮影もされていることからこの結論を疑問視し、マーシャル陸軍参謀総長による報告書のように日本軍機の飛来を主張する者や、「日本軍の脅威を強調するために、軍需関連企業の意を受けた保守派団体などが航空機を飛ばし故意に騒ぎを起こした」という説を唱えるものがいたほか、戦後には「未確認飛行物体(UFO)が飛来した」と主張する者さえいる。



なお、事件が起きた1942年においては、アメリカにおいていわゆる「UFO」の概念は一般市民のみならず軍内部においても認識されていなかった(「地球外生命体の乗り物」という意味でUFOの語が広く用いられるようになったのは戦後の1947年以降のことである)ため、事件当時には「UFOの飛来ではないか」という意見は大戦後に至るまで軍民、マスコミのいずれからも起きることはなかった。



いずれにしても、実際の被害の大きさよりも、アメリカ軍民に衝撃と混乱を与えることが目標とされた2月24日のサンタバーバラへの日本海軍艦艇による砲撃の成功が、このような形でのアメリカ軍の混乱と、同士討ちによる被害を招いたともいえる。




飛行物体からの攻撃行為はなかったものの、ロサンゼルス市内には陸軍が迎撃のために発射した対空砲火の破片が多数散乱し、破片により地上では住宅や自動車が被害を受けただけでなく、3人が破片にあたり死亡した。




さらに突然の「日本軍機襲来」と対空砲火に驚いた市民3人が、心臓麻痺で死亡した。




このように、日本軍による上陸や空襲を恐れたアメリカ軍が過敏な警戒体制を敷いていたこともあり、日本海軍機によるロサンゼルス市を含むカリフォルニア州内への空襲は行われなかったものの、同年9月には日本海軍の巡潜乙型潜水艦「伊25」に搭載されている零式小型水上偵察機が、2度にわたり隣の州であるオレゴン州へ空襲を行った。



さらに上記のエルウッド石油製油所への砲撃以降、同年の6月20日には伊17と同じ乙型潜水艦の「伊26」が、カナダ、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。



この攻撃は周辺の無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかったものの、翌21日にオレゴン州アストリア市のスティーブンス海軍基地へ伊25が行った砲撃では、基地の施設に被害を与えてアメリカ海軍兵士に負傷者を出した。



この攻撃は、1812年にイギリスの軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある同国軍基地への攻撃であった。



日本海軍機は同月にはアラスカ州のダッチハーバーにあるアメリカ海軍基地に対する空襲も行い大きな被害を出したものの、これらの日本海軍艦船および航空機による一連のアメリカ本土への攻撃作戦に対して、当時各地で日本軍に対し敗北に次ぐ敗北を重ね、艦船や航空機を喪失し弱体化していたアメリカ陸海軍は何ら効果的な反撃をすることができなかった。




謎の飛行物体・・・・、UFOだね間違いない!!!!( ´艸`)