老河口作戦 世界戦史における騎兵の最後の戦闘 | 戦車兵のブログ

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世界戦史における騎兵の最後の戦闘と言われた老河口作戦で、日本陸軍騎兵第4旅団が老河口市街の陣地を占領したのが昭和20年4月8日であった。

騎兵科は機甲科の先祖とも言える、その騎兵の有終の美を飾る戦いを紹介します。


昭和20年1月29日 支那派遣軍は、北支派遣軍及び第6方面軍をして飛行場覆滅を目的として
老河口及び(止)江攻略作戦を実施するに決定した。

北支那方面軍(下村定大将)は第12軍/第110師団、第115師団、戦車第3師団、騎兵第4旅団を以って3月中旬末攻撃開始の構想の下に準備を進めた。

3月22日 軍は一斉に攻撃を開始、前面の敵陣地突破、各兵団は所命の如く前進を続行した。

特に活躍が目覚しかったのは騎兵第4旅団(旅団長 藤田茂少将)であった。

当時既に騎兵は自動車化に改編しつつあり、支那大陸の特性に鑑み最後にのこった唯一の騎兵部隊が同第4旅団であった。

果敢な急襲によって3月27日 老河口飛行場を占領次いで老河口市街の陣地を攻撃したが、城門突破は阻止され成功しなかった。
 
老河口は防備強固なるため重砲・第13戦車隊を招致、さらには第115師団と協力し、4月8日これを占領した。


これは世界戦史における騎兵の最後の戦闘と言われ、我が騎兵第4旅団は見事に最後を飾った。

この間老河口攻略作戦に協力すべく第6方面軍は、第34軍(軍司令官佐野忠義中将)をして襄陽方面に作戦を展開。

第39師団を主力とする部隊は、3月21日から漢水に沿う地区を北進し、敵を撃破しつつ襄陽、次いでその一部は毅城を占領した。

しかし優秀な米軍の支援を受けた支那軍の反撃を受け、4月初旬には現駐屯地へ反転の止む無きに至った。

老河口作戦の日本軍は第139聯隊に例を取れば4分の3の10個中隊が参加し、中隊の実質兵力は1個中隊120~140名であって、重火器部隊もその兵器はほとんど鹵獲兵器というまさに末期的な哀れな状況であった。


 そのわずか2個聯隊を基幹部隊とする約5千人足らずの兵力で、名将といわれた胡宗南将軍指揮下の14個師団の中国軍と、米軍飛行隊の攻撃に対し、4ヶ月間の間、完全に包囲されながら孤軍奮闘して、陣地を固守して与えられた任務を完遂した。

決して優勢な状況下ではない日本陸軍の中で騎兵の最後が勝利に終わったのは、世界戦史に残る勝利といえよう。