回廊を行く――重複障害者の生活と意見 -22ページ目

なぜ教育基本法「改正」か?

 「教育基本法+改正+なぜ」で検索するとかなりの数がヒットします。多くの人が「なぜ?」と思っているのがわかるというものです。小泉前内閣の郵政改革も拙速でしたが、何らかの具体的結果が出るということで急いだということもわからないでもありません。もちろん納得させられるということではありませんが。それに比べて教育基本法はすぐには結果の出ない息の長い分野の問題であり、それが安倍内閣で「改正」が優先順位のトップとされ、与党が単独審議を行なっても採決を急ぐというのは理解困難というほかありません。


 考えてみたのですが、安倍首相の先任者に対する対抗意識が裏にあるのではないでしょうか? 小泉氏は自民党の尺度で言えば功績をあげた首相でしょうが、安倍氏の見方からすれば所詮は「年次改革要望書 」などによるアメリカからの圧力に応えたものに過ぎないのではないかと思われます。党人政治家の三代目でしかない小泉氏に対して、自分は高級官僚から首相になった人物の三代目であるという意識もあるでしょう。三代前の岸信介氏は上杉慎吉博士直系の国家主義者で、あの安保条約改正もアメリカと対等になりたいという意欲がなさしめたのはたしかです。単純な媚米派ではありません。そもそもがアメリカに対する宣戦布告にサインした東條内閣の一員だったのです。こういう血筋を誇りとしてきた安倍氏が、たとえ方便とは言え「ブッシュのポチ」とまで言われた小泉首相の政治行動を尊敬の眼で見ていたとは信じられません。一方では「押し付けられた」教育基本法は保守勢力にとってずっと目の上のこぶです。こう考えると今回の「改正」までの経緯は安倍氏の成人儀礼であり、自立への第一歩と言うべきでしょう。


 「改正」案が登場し衆議院で可決されるまでになったもうひとつの理由は、省の存在理由をアップしたいという文部科学省の官僚の欲求でしょう。以前文部官僚は官僚(つまり「高級官僚」という意味でしょうが)の間では下から三番目とされていたそうです。下の二つは国会官僚なので、行政官僚としてはビリ。すぐ上は郵政官僚だったのですが、こちらは情報通信が時代の寵児となり、おまけにもともと順位がベストスりーに入っていた自治省と合併して総務省となったので、とっくに離陸しています。科学技術庁と一緒になってもうだつは上がりません。近くは「ゆとり教育」や、さかのぼっては共通一次の導入以来大学入試が、制度も個々の大学の入試方法も次々に変わって受験生を戸惑わせるなど、一口に言って朝令暮改をこととしてきたのを見ると文部省に対する評価はそれほど見当違いではないように思われます。


 いじめとそれによる自殺、さらに必修単位の履修漏れにタウンミーティングの「やらせ」など、ある野党議員の質問にありましたが、ある学校に起こったのなら校長の責任と、ある県で頻発したらその県の教育委員会の責任とすることもできるでしょうが、全国的に起こるとなると文相と文部科学省の責任というべきです。教育基本法という、それこそ基本的な法律についての審議の最中に多くの問題が同時に噴出したということは、考えようでは千載一遇の好機であるはずです。議員や国民の目が向いているときに、当面の法案は一時棚上げし、じっくり審議を繰り返してその成果を生かすようにすべきでしょう。それを安倍首相の個人的な焦りと文部科学省の焦りが台無しにしているのが現状だと思います。それなのに文部科学省の結城章夫次官は、タウンミーティングの「やらせ」についての調査に関して再発防止策を聞かれ、「内閣府が時間をかけて調べた結果ですから、とりあえずこれで一応いいかな」と、まるでひとごとだったそうです(朝日新聞2006.11.20)。眼前の問題にこれでは、同僚の評価を上げるどころの騒ぎではないですね。


☆先生と 保護者を抜いて 再生し




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アンリ・ルソー展を見る

ルソー熱帯風景

 近くの大公園の中にあるS美術館に行ってきました。ここはユニークな企画で有名なところで、こういうところが近くにあるのはありがたいことだと思っています。やっていたのはアンリ・ルソー展で、ルソーそのものは日本中からかき集めた十数点のみでしたが、戦前の日本のルソー観、戦後の日本への影響といった主題で多くの日本人の絵や参考資料が出品されており、戦後の部分はさらに洋画と日本画に分けてあるなど、いつもながら個性的な展示でした。


 ちょっと物足りなかったのは、ルソーといえばまず思い浮かべる所在不明の熱帯林を舞台とする絵が画像の1枚(注)しかなかったことで、憶測ですが、欧米でもこの系統の絵が人気があって高いから、日本にはないということでしょう。もう一つ物足りなかったのは解説でルソーとシュールリアリズムの関係について触れていなかったことで、不遇だったルソーをはじめに認めたのはシュール系の作家ですし、所在不明の熱帯林にヌードを配するなどという画面は、アポリネール曰くの「手術台上の雨傘とタイプライターの出会い」に通じるものがあると以前から思っていたのですが。


 現代への影響のところでは日本画の方がルソーをよりよく咀嚼していたようでした。もともとが日本でシュールを取り入れて成功しているのは洋画より日本だと思っているので、これは裏返しだがルソーとシュールの縁が深いことを証明していることになるかなと考えます。戦前のところで日本でのルソー熱が高かったことを知りましたが、これはルソーの絵には遠近法の点で欠けるものがあり、欧米人は抵抗を感じることがあるのに対して、遠近感に重きを置かない日本画を見慣れている日本人は違和感を感じなかったという面もあるでしょう。


 不満を言うならば作品のタイトル等や、添えられた解説の文字が小さいので読みにくかったことです。もちろん私の視力が落ち気味であるせいですが、この程度に視力の落ちている方は多いでしょうし、このご時勢に美術館が老齢者層を相手にしないでは成り立たないでしょう。ただでさえ作品の保護のために照明を落としているので、この辺をもっと考えてほしいものです。


 このようなことを美術館に伝えようと思ったのですが、アクセス手段については電話番号のみでメールアドレスはおろかファクス番号もありません。これでは聞こえない私には封書しかないかと、設立者のS区のホームページを探索したら、S区の担当部門および管理者のS財団のファクス番号はわかりましたのでそちらに送信してみます。区の方では文化・生涯学習というセクションに分類してあるので、そういうジャンルでフィードバックを考えないようでは如何かと思われると言ってみるつもりです。


☆美術館 連れ来る犬も セレブ顔


(注)この図像はS美術館を管理している財団のホームページからコピーしたもので、元の絵の所蔵はカタログでは空白なので個人蔵と思われます。このホームページには他の美術館所蔵作家の作品について「著作権上の問題で」画像が掲載されないものがあるので、画像の出ているルソーの作品については問題がないと理解し、かつそのホームページ自体の著作権については言及がなかったので、画像を借りることは可能と解釈しました。今後万一クレームがあれば画像部分は削除するかもしれません。



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歩道の自転車

 自転車が歩道を走れる要件を定めるというのが、来年の道交法改正に含まれるという報道 がありました。何を今さらと思います。これまで実際は歩道通行を黙認されていたが、そのあいまいな位置づけを警察庁が約30年ぶりに見直すというのですが、これまでは一般にどう思われていたと警察庁では考えているのでしょうか?


 実はまさに30年ほど前に私は、「自転車が歩道を通るとき右左のどちらを通行すべきか」と警視庁に文書で聞いたことがあるのです。返事の封書はどこかに残っているはずですが、記憶では自転車は車道側を通るのが原則ということでした。何せ警視庁の返信ですから何らかの根拠があるのだとずっと思っていましたが、運用というか、仮の便宜的なものだったのですね。どおりで「一応」とかいう言葉が使ってあった記憶があるはずです。記憶といえばみな記憶ですが、間違いないと思います。


 私はそれ以後ずっとそのつもりでいましたが、このルールを知っている人に会ったことはないし、字になったものを読んだこともありません。自転車に乗るには免許もいらないし、車の免許は歩道内の人と自転車のことは関係ないし、ひょっとしたら学校で交通安全教室のような催しがあれば知らせているかもしれませんが、とにかく聞いたことはありません。実際には歩道の車道側には電柱や街路樹やバス停があるので、自転車でずっと車道寄りを走るのは無理でしょうが、歩行者とすれ違うときは自転車が車道側なのだと理解していました。高速道などを除いて道路は歩行者が先住者なのですが、参入者の車が先住者を追いやり、自転車も駆逐して、歩道を使って弱者同士で助け合えみたいなシステムが「歩道内自転車通行可」だったわけですが、法的な裏づけは希薄だったのですね。


 警視庁への質問には歩道上で人と自転車がぶつかった事故の責任はどちらにあるかというのもあったのですが、これには歯切れはよくないが自転車のほうかな、というニュアンスでした。考えてみるとケースバイケースとも言えますから、明快でないのは無理ないといえますが、人と自転車がぶつかった場合は、人対車や自転車対車と違い、自転車のほうが倒れて被害が大きいという場合もありそうなので聞いたわけです。子どもの頃、歩道のない道ででしたが、店から出た出会いがしらに自転車とぶつかり、こちらは大したことはなかったけど、向こうは倒れて自転車からも飛ばされて、もう少しでそばのポストに頭をぶつけるところだったという体験もありましたから。


 上の事故の一因はもちろん私が聞こえなかったことです。自転車は乗れますが、他の乗り物の音が聞こえないということでめったに乗りません。聞こえないでどんどん自転車を使う人もいますが。で、警視庁への質問も歩道を通っているのに、聞こえないので自転車にぶつけられたんじゃたまらないという動機があったわけです。私の家の近くに18ヘクタールの公園があり、夕方に閉門しますが、その周囲を回るのも絶好の散歩コースです。全コースに歩道ないしガードレールがあり、通行量も少ないのでなおさらです。ところが通行量が少ないのも仇で、たまに通る自転車の中には猛スピードのものもある。聞こえない身にはちょっとのんびり散歩というわけにはいきません。これで自転車の歩道内通行が法的に認められるという情報が広まると、自転車が歩道を通る際は遠慮がちという、マナーとまではいかぬまでも時に見られる態度が薄らぐのではないかと、これは杞憂ならいいのですが。せめて自転車は原則として車道側を通るというルールも、併せて広報してほしいものです。


☆安全な はずの歩道も 気を抜けず



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コメンテーター

 昨夜たまたまNHK教育の福祉の時間を見ました。最近ではこういうものも字幕がついているので大助かりです。2年位前までは3チャンネルで字幕のつくのは聴覚障害者関係のものだけでした。さて内容は老人の生活保護の話。少ない年金に生活保護でかろうじてやっていた老人が、老齢加算分を受けられなくなって、生活するのに苦しい状況に追い込まれるというものでした。まずレポートがありましたが、当事者が映っていることもあって切実でした。


 この問題のコメンテーターとして登場したのが慶応大の金子勝教授。行政や福祉体制の批判になることは出てきた瞬間からわかります。コメントも的確でわかりやすく、本当に何とかせねばと思わされましたが、同時にもったいないなとも思いました。こういうレポートを出した次には、金子教授とは違った意見の、現制度擁護の立場であろう、同じ慶応なら復帰早々の竹中教授とか、あるいは厚生労働省の高官の意見をまず聞きたいものです。


 まず現状をレポートし、そうなった経緯と理由を当局サイドの人に話させ、その次に金子教授のような人が登場するといいのではないでしょうか。いきなり論争するのではなくても、次の回にでも。そういうプロセスを踏んでこそ、生産的だと思います。NHKとしては中立的な報告を提供しているので、何も生産的を目指しているのではないというかもしれませんが、だったら切実な現状などはじめから取材する必要もないでしょう。


 福祉関係だけかもしれませんが、障害者自立法など、新しい制度の解説には当局の人も出てきます。ところがそれの実施に当たって生じる問題については、取材があってレポートがあって、批判的な人がコメントするというパターンになりがちです。ディスカッションはあっても、実施後こそ要請される当局者のまとまった見解が明らかになることは少ないようです。


 あるいは出演を拒否するのかもしれませんが、それなら、まあNHKには無理でしょうが、竹中先生なり厚生労働省の高官なりに出席を要請したが出てくれなかったと番組の冒頭に言えばいいことです。


 なお、前にも書きましたが、こういう個別の問題ではなくニュース一般に、警察の元管理職がコメントしているのは不愉快ですね。犯罪事件についてのみならまあいいけれど。一般的な問題にまであれこれ言われたのでは、視聴者がお上的思考に染まっちゃうんじゃないかと心配になることがあります。


☆新制度 作った後は 見たくなし



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『戦後政治家暴言録』

『戦後政治家暴言録』

著者: 保阪正康

出版社: 中公新書ラクレ(2005年刊)


 著者は評論家とあるが、とくに昭和史と医療についての著作が多い。調べごとの関係で接したことがあるが、信頼の置ける人柄と思った。近来現代政治を語る人々の間には権力に擦り寄る傾向が顕著であるが、この著者はそれとは一線を画していることが本著からもうかがえる。


 まず戦後の暴言第一号として東久邇首相の「国民総懺悔をすることが、わが国再建の第一歩」があげられるとされているが、当時この発言を暴言としたのはむしろ旧体制の意識を持った人々であり、旧軍人である(退役で戦争には係っていない)小畑国務相が「終戦の事実をあまりに明らかにすることは、国民の士気の上に、また復員軍人を刺激するなど悪影響があるといって、強硬に反対した」と東久邇氏の日記の残されているという。何が暴言であるかは時代や背景にもよることがわかる。


 著者が時代をおいてはいるが似通った暴言として「まえがき」にあげているのは、小泉前首相(執筆時は現首相)の管民主党代表のがイラク復興支援特別法でいう非戦闘地域についての、「どこが戦闘地域でどこが非戦闘地域なのか」という質問に対しての、そんなこと今私に聞かれてもわかるわけがない」(2003年7月)である。小泉氏はさらに2004年11月にも当時の民主党代表岡田氏の同趣旨の質問に対して、「自衛隊が行っているところが非戦闘地域である」と答えている。民主党の幹部が力不足なのか、いや、呆れ返って反問できなかったのかもしれないが、これはそれで済んだようであるが、あとで新聞記者に問われても小泉氏はこの答弁の不都合なところがわからなかったようである(あるいはわからぬふりをしたのか)。本当にわからぬなら小泉氏には首相が公的な責務を持つ存在で、問題となっている法案の提出者で、問われている場が国権の最高機関であることを理解していなかったとしか思えない。


 保阪氏が対照として引用するのは、1941年11月の言論出版集会結社等臨時取締法の質疑で、「この法案でいうところの戦時下ではない状況とは具体的にどういうときをさすのか」という質問に対して、時の東條英機首相は「平和回復、それが戦争の終わりである」というもので、そうではなく法制的にどういうことかと聞きなおされても、「戦争でないとき、平和になったとき」と繰り返すだけだったという。これは前記小泉発言とたしかに似ている。ただ東條氏は本当にそれ以上理解できなかったのに対し、小泉氏は他の「暴言」の数々を思い返すと、百も承知でとぼけてその場を逃れた疑いが残るところが違う。


 著者は暴言・失言のパターンとして次の六つをあげている。わかりやすい例を( )に入れてみると次のとおりである。

 (1)歴史解釈に触れる発言「(創氏改名について)朝鮮の人たちが仕事がしにくかった。だから名字をくれといったのがそもそもの始まりだ」:麻生太郎自民党政調会長(当時)、2003.5)。

 (2)女性蔑視、あるいは」女性に対する性差別発言(「集団レイプする人はまだ元気があるからよい。正常に近い」:太田誠一自民党議員、2003.6)。

 (3)倫理観に触れる発言(外務省の田中審議官の家に爆弾が仕掛けられた事件について、「爆弾を仕掛けられてあったり前の話だ」:石原慎太郎東京都知事、2003.9)。

 (4)事実に反する虚偽の発言(被爆者団体の人々に対して、「病は気から」:中曽根康弘首相(当時)、1983.8)。

 (5)無知丸出しの発言(前記非戦闘地域に関する発言:小泉純一郎首相(当時)、2003.7、2004.11。ただし本当に「無知」か?)

 (6)イデオロギー対立からくる罵倒発言(「全面講和論は曲学阿世の徒の空論にすぎない」:吉田茂首相、1950.5)。

 著者はさらに次を加えている。

 (7)激情タイプの非社会的発言(「(罪を犯した少年の)親は市中引き回しのうえ、打ち首にすればいいんだよ」:鴻池祥肇防災担当相(当時)、2003.7)。


 実際の暴言・失言にはカテゴリーを決めかねるものも多い。たとえば(1)の麻生発言は(5)とも考えられるし、多くのものは発言者の無知・無教養・無配慮に帰せられるといってもよいかもしれない。しかし森元首相までの暴言には、効果を狙ったかどうかは別として、本音の吐露という側面を多く持っていたのに対し、小泉氏の場合はかなり違う。


 「この程度の約束を守らないことは大したことではない」(2003.1)、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」(2004.6)、「(北朝鮮の金正日総書記について)あれだけの独裁国家のトップにいるのだから、それなりに能力がある」(2004.6)、「国会での質問もいろいろ、答弁もいろいろ、私が比較的失言が少なく答弁できるのは皆さんのおかげだ」(2004.7、各省庁の国会担当者との会合で)など、記憶に新しいものだけでも少なくないが、これらはむしろ世論のかく乱を狙った意図的なものが多かったのではと今では思われる。(8)のカテゴリーとして「国民への挑戦」とすればよいかもしれない。要するにデマゴーグ的な政治家であったのだ。


 この小泉調がまかり通ったのは、著者の言うように「この社会から真面目に討論する、議論するという姿勢が失われてしまったために、用いられる言葉がますます限られてきて、言論は次第に死滅する」時代に入ったということなのかもしれない。そしてそれは小泉氏の登場と、その高い支持率に恐れをなしたか暴言を報じても一過性の批判しかせず、国民の間にアパシーを蔓延さマスメディアの責任は大きい。最後にもう一度著者の言葉を引用すれば、「私たちは不気味な時代に生きている」。


☆言の葉の 力が失せて 国滅ぶ



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聴覚障害者の病院行き

 家内が1週間ほどの外国旅行に旅立った翌朝に、一人で朝食の準備中に左手の人差し指を切りました。血がぽたぽたと床に落ちるほどでしたが、我ながら意外と冷静で、傷口を水洗いした後テープを巻き、まだ血が出ているので指の根元を輪ゴムで縛って止めました。ごく近くに嫁、次男の妻が住んでいるので携帯メールで連絡し、救急箱を持ってきてくれました。ご承知でしょうが、私は聞こえないので電話は使えません。救急箱の中身で消毒しなおした後、菌が入ったらいけないということになって嫁が行きつけの内科に電話しました。すると自分のところは内科だから、傷の手当の設備はないとの返事。近くに外科はないかと聞くと、あったが最近廃業した、と。改めて電話で探してタクシーでワンメーターくらいのところを見つけ、あらかじめ電話を入れました。


 聴覚障害者にとっては病院は鬼門の一つです。とくに大病院は禁物。受け付け、科の受け付け、診療科のドクターやナース、会計の窓口、薬局とそれぞれ別の人ですから、見てそれとわからぬ聴覚障害者は最初は配慮してもらえません。わかった後でも時間がたつと交代したり、長い目で見るとドクターやナースの担当が替わったりしています。小規模のところなら二度目からは何とかなるのですが、今回のような場合ははじめての病院ですから手も足も出ません。それに場所もはっきりしないので、タクシーの運転手さんに指図しにくい・・・というか、当然前を見ているから何か言われてもわかりません。そういうわけで嫁に同道してもらって、行った先もナースの数が多く、親切だったので後は順調でした。


 以上、いろいろな問題が含まれていると思います。まず外科の廃業ですが、これは小児科や産婦人科が減っている状況と関係があるのでしょうか? それと内科で切り傷の手当てもできないというのは、今どき普通なんでしょうか? NHKの朝ドラで評判のいい『芋たこなんきん』では、大阪の開業医に嫁いだ女性作家がヒロインですが、怪我人の手当てもしているようです。これは昭和40年代の前半という時代的なものか、それとも大阪の下町と東京の住宅地の違いでしょうか? 指を切っても縫うほどでないことは多いので、一応はかかりつけで処置してほしいものです。イギリス系の医療制度では一般家庭医というのがあり、専門医とは資格も別のようです。知人に南アフリカの家庭医の資格を持っている人がいますから、今度軽い怪我の手当てもやるのかどうかを聞いてみるつもりですが、聴覚に限らず障害を持つ者は、病院への窓口としてこの家庭医的なものが制度化されているとありがたいと思います。


 しかし現実はどうかと、病院に行きづらい状態を「受診抑制」というと聞いていたので、少し検索をしました。するとそのものズバリ「聴覚障害者の受診抑制の実態 」というのがあり、イギリスの実情の調査でした。これを読むとやはりイギリスでも聴覚障害者は病院行きはためらうことが多いようです。この調査ではコミュニケーションが主として手話であるろう者と、話すことはできる中途失聴者・難聴者を区別していませんが、私は話すのはそう支障ないけど、病状を手話でないとくわしく表現できない人はもっと大変だと思います。私にしても、普段は家内、今回は嫁がいたわけですが、ちょっとの不調だと病院への同道を言いにくいことがありますね。まあ、私の場合は恵まれているほうですが、今後のことも考えねばなりません。


 もう一つ書いておきたいことは、病院などで聴覚障害者であることが認識された後も、声を大きくするとか、筆談をするとか、少し習った手話を使うとか、あるいはどうしていいかわからず呆然とするか、その対応がまちまちでは困るということです。個別に言うと、耳鼻咽喉科がもっとも対応が悪いというのが私の体験です。固定した病状には興味がなく、面倒だから来ないでほしいというのでしょうか。他の障害についてもおそらく似たようなことはあるでしょう。


 医事関係に限らず建築とか運輸とか通信とか、専門職を養成する教育機関では障害者についての知識も必修にしてほしいものです。


〔追記〕社団法人全日本難聴者・中途失聴者団体連合会(全難聴)では『新・病院受診ガイドブック 』というパンフレットを出しており、入手可能です。たとえば第2章通院編の項目は次のとおりです。「案内・予約、受付け、各科受付、診察、会計、情報保障」。


☆健診も 予防も気軽に 行けぬなり


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何とかなりませんか? アメブロさま

 さっきブログを1本書き上げたのですが、ちょっとした手違いで、というよりは何をどうしたかわからぬうちに消えてしまいました。「元に戻す」をクリックしても無効。


 こういうこともあろうかと、以前はテキスト・エディターで作ってから「新しく記事を書く」にコピーしていたのですが、一度出した記事を「記事一覧・編集」で呼び出していくら訂正しても反映しなかったので質問したところ、元がテキスト・エディターで作ったり、WEBからコピーしたりした部分は訂正できないという御返事。仕方なく直接書き込んでいたのです。


 ですから最低、「記事を書く」で書いた原稿は簡単に消えないようにしてほしいものです。同じ経験がたしかこれで3回目ですから。


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井戸を掘った人

 松坂投手の大リーグ移籍の報道が盛況をきわめました。もとより私はそのすべてに接したわけではありませんが、目にした限りでは引き合いに出された他の選手名がほとんどイチローと松井だけなのに疑問を感じました。最初の日本人大リーガーである村上投手のことは持ち出すことはないとしても、初めて自分の意思で大リーグに移った野茂投手の名に触れた報道が見つからなかったのはどういうわけでしょうか。


 野茂投手の移籍は手続き的なものがまだ整備されていなかった時代のもので、あるいは野茂のわがままとも見えないこともなく批判もありました。しかし彼がパイオニアの役を演じたからこそ移籍のシステムができ、イチローは自己の身体作りを含めて万全の準備をして大リーガーとなり、松坂に至っては小学校時代から大リーグにあこがれ、ずっとそれなりの準備をし続けたということになるのです。中国では最初に『井戸を掘った人」を尊重しなければいけないと言われていますが、松坂の件でその意味で最初に言及しなければならないのは野茂の名であるのに、実際に出てきたのは当面活躍中のイチローと松井の名であり、関心の対象はまず移籍に伴って動くお金の額というのは、日本人というか日本のマスメディアというかの思考の、浅薄さを象徴していると思いました。


 その中で「日本選手の活躍度2位は野茂 」という記事が見られたのはうれしいことでした。これは大リーグの公式ホームページに載った日本選手の活躍度ランキングを紹介したもので、1位がイチロー、2位が野茂、3位が松井、以下井口、長谷川で次点が佐々木ということです。期待はずれのランキングもあって1位は中村、2位は松井稼、3~5位は石井一、吉井、伊良部、次点は新庄。活躍度については同感で、長谷川を佐々木の上にしたあたりには専門家の目を感じさせます。文化の浅薄さといえばアメリカが日本より上だというのが常識でしょうが、さすがに大リーグの野球という自らが歴史を形成してきた分野だと、常に過去と現在に目配りを怠らぬ重厚さがあります。


 野茂は38歳 ですが、手術をしてトレーニングを積み、大リーグの舞台への再登場を目指しているそうです。大リーグでは40歳の投手も何人かいると聞きます。年齢だけで限界を云々するようなことはないようです。大リーグで再起した体験すらすでに有する野茂投手ですから、宿願を達成するよう願ってやみません。野茂の努力は「再チャレンジ」などという薄っぺらい言葉で表現できるものよりはもっと高度であり、かつ深みのあるものだと思います。



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自殺の防止

 他の方の自殺を扱ったブログに続けて二つコメントをしました。幾分かその繰り返しになりますがここでも書いておきます。


 まず国民性による自殺観ですが、これには「自殺許容度の国際比較 」というデータがあります。これは世界数十ヶ国の大学・研究機関の研究グループが共通の調査票で調べる「世界価値観調査」の一環で、自殺許容度は2000年に58ヶ国で行なわれ、18歳以上の男女1000サンプル程度が用いられています。日本の許容度は13位ですが、現実の自殺率を縦軸に、自殺許容度を横軸にプロットした図によると、この二つは必ずしも相関していません。オランダ、フランス、スウェーデンなどは許容率が高いのに自殺率は低いのに対し、リトアニア、ロシア、ベラルーシといった旧東欧諸国が許容率が低いのに自殺率が高くなっています。これはそれらの国々の経済困難度が反映しているようで、東欧諸国のデータを除くと相関関係はやはりあるようです。


 日本は許容度、自殺率共にやや高いのですが、これについてはWHO精神保健部の専門家のコメントが引用されています。「日本では自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺が捕らえられている」。自身の名誉や責任に、上司や家族や隣人のそれを加えるとほぼ正しい見解であると思われます。


 私が書いたコメントでは「切腹」や「特攻隊」といった自殺形式の存在によって、日本人に自殺肯定の観念が刷り込まれているというのがありますが、「心中」もそれに含まれますね。知覧かどこかで特攻隊の兵士の遺書を見て感動したことが靖国参拝につながったと、小泉氏はそう称していますが、これが事実であれば、小泉氏の靖国参拝もそれを支持する意見も、やはりこの自殺肯定のDNAが作用しているわけでしょう。これは必ずしも多くの同意を得られない意見かもしれません。しかしリーダーの位置を占めている人の美意識の影響力というものは、きわめて警戒すべきものであることはわかります。


 あるMLで知らされたのですが、1980年頃に自殺率が10万人あたり28.2人にまで達したオーストリアの精神医学界が、自殺事件の報道に問題があるとして、自殺報道に関するガイドライン をまとめたそうです。そこで自殺の誘発要因として問題にされているのは「自殺者の名前」「顔写真の掲載」「自殺方法の詳細な記述」そして「遺書の公開」などで、こうしたことの公表をできる限り抑えるようにメディア側に求めたということです。


 とくに日本ではスクープ合戦の目標となる遺書についてウィーン自殺センターの所長は、「遺書の詳細な報道は、同じようなトラブルを抱える人にとっては、自殺しか解決方法がないという印象を与える恐れがある」と語っているそうです。


 もって他山の石とすべしと言いたいところですが、自殺防止法が成立したばかりでまだ専門の研究所もないし、戦前に官憲からさんざんに刷り込まれた反動からか、報道協定の類には内容のいかんを問わず身構えてしまうメディアの現状では、こういう有意義なガイドラインも話題にもならないかもしれません。



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「朝日」は何を考えているのか

 右派系のブログにあったのですが、今回のタウンミーティングのサクラ事件の報道では、朝日がとりわけ熱心なそうです。そうなのかとヤフーのニュースで検索をかけたら他の新聞のクレジットがついたものもたくさんありました。右派系の言論というのは気に入らない報道があると、朝日を右代表として断罪するのがお好きなようですが、内実はこういうものですから、朝日自身が有名税と心得ているようなのも無理のないところでしょうし、その姿勢が誤っているとは思いません。


 しかし教育再生会議の海老名香代子氏が、日本共産党の書記局長と対談したということを報道したのには驚きました。これはWEBからはもう消えていますが、「教育再生会議委員の海老名香代子さん、共産幹部と対談」というタイトルで、「テーマは平和についてで、学力低下やいじめなど教育問題についての直接の言及はなかった」そうです。WEBでは11月5日18時47分となっているので6日の朝刊に載ったはずで、読んだ覚えはありますが現物は残念ながら行方不明です。しかし一段見出しのいわゆるベタ記事だった記憶ははっきりしており、あの朝日が何でこんな記事を載せるのだろうかと思ったこともはっきり覚えています。


 海老名氏はこれまでも『赤旗』に登場したことがあり、5日の「赤旗まつり」でその対談を行なうということ公表されていたので、かねてから右派系の言論が問題とし、教育再生会議の委員の選定に満足していない理由の一つとしていたということがあります。そういう状況があるのに、なぜ朝日新聞が予定通り行なわれた対談、さしたる内容もない対談を報じたのか不思議でなりません。


 この時期にこういう報道を行なうことに意味があるとすれば、他の委員の行動についても時には言及があってしかるべきでしょう。たとえば委員のうち何人かは『諸君』などの右派系言論誌に複数回執筆していますし、ある委員はある時期定期執筆者でもありました。中立を標榜するなら当然こういうことも問題でしょうが、そこまでいえばきりがないのは理解できます。しかし海老沢氏を共産党と結びつけるような報道をわざわざ行なうならば、他の委員の何人かが右派系言論誌の執筆者だったことも報道しておくべきでしょう。それらの委員の委員に任命された後の保守系教育団体、たとえば「新しい歴史教科書を作る会 」や「日本教育再生機構 」のメンバー等との関係や接触状態も報道すべきでしょう。


 それにしても朝日はなぜあんな報道をしたのか。ひょっとしてあれは挑発だったのでしょうか? だとすれば今後が見ものです。


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