RED FLAG TOKYO -7ページ目

「さくら」と「五輪マーク」


2020.3.20.聖火到着式に向けて、ブルーインパルスが松島基地において描きもの課目「五輪マーク」の訓練を開始しました。

東京五輪開幕まで半年となった1.24.には、東京港に五輪モニュメントが浮かべられ、他方、松島基地ではブルーインパルスが「五輪マーク」を五機ではじめて描きました。


1.24.の五輪マークは、東京五輪1964において「本番まで一度もまともに五つの輪が並び揃わなかったが当日見事に決めた」との伝説とは裏腹に、見事な揃いぶりを見せました。


このことにはF-86Fブルーインパルスの五輪の描き方とT-4ブルーインパルスの描き方が違うことと、T-4ブルーインパルスの人気課目「さくら」の存在が大きく寄与していると考えられます。


F-86Fブルーインパルスは

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の方向に進入して五輪を描きました。

T-4ブルーインパルスはニュース映像のスモークオンの起点を見る限り、

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の方向に進入しています。


この進入方法は「さくら」の応用と考えられます。

「さくら」の描き方は、デルタロールを終了し会場右後方に抜けた六機が会場正面に向かって折り返し、星形のポイントスターのような隊形(正確には二列目さくらの中心④より左右②③は少し前に位置する)を広げていって、六つの輪を桜の花弁に見立て、左旋回で六つの輪を描きます。

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この先頭の一機が無い五機のWのような並び

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は、星形マイナス1でもありますが「カシオペア」隊形そのものでもあります。


機番の並びはこれから調査していきますが、恐らく

②①③

  ④⑥

のカシオペア隊形の通り。

六機で上がりカシオペア隊形に入らない⑤は、上空での各機コントロールチェックの後、不具合のあるポジションがあれば交代します。その時①が故障したことも想定し、多数機編隊長の資格を持つ第二編隊長⑤が予備でなければならない必然があります。

故障機がなければ、隊形の確認役と記録撮影を行うと思います。この辺りは長野五輪の手順と同じです。


「カシオペア」隊形の間隔を「さくら」開花のやり方で五輪に展張する、⑤が隊形を確認しながら併走する、これこそがT-4ブルーインパルスの五輪整列成功の秘策ではないでしょうか。


2004年、航空自衛隊50周年のために開発された「さくら」は、当初「五輪マーク」に誤解されることが多くありました。

2004年の松島基地航空祭で初公開され、以降2004年シーズンの1区分に組み込まれた「さくら」は、実施する先々で「五輪マークだ!」との歓声を浴びました。その度に「いや、あれはさくらなんです」と周りに声を掛けたものですが、それほどに「ブルーインパルス=東京五輪1964で五輪マークを描いた」輝かしい記憶は、人々の心に深く刻み続けられていたのです。


2020年のオリンピックが東京に決まったのは日本時間201398日、百里基地航空祭の早朝でした。当日はブルーインパルスのナレーションにも東京五輪祝賀飛行への意気込みが込められました。


しかし、そのはるか前、2003年から2004年に開発された「さくら」が「五輪マーク」の機動にこれ程に相性が良かったのは、もしや、当時東京五輪などの話はいっさいなかったものの、将来の日本開催のオリンピックを見越して「さくら」を開発したのではないか、とすら思えてきました。


その事を開発当時の元隊長に問い合わせたところ、

「さくらはそれを意識していたわけではありませんが、テクニカル面では、ノウハウの蓄積になっていると思います」

とのことでした。


また開発時に関わる元飛行班長は、常々「五輪はさくらの応用で描ける」と言われてきました。


今後、進入角、ポジションと機番の並びなど上記の検証と確認をしていきますが、F-86Fブルーインパルスとは違うアプローチを取ったT-4ブルーインパルスの「五輪マーク」には「さくら」の開発想定を超えた貢献が垣間見られるのです。


さて、ブルーインパルスが東京五輪2020関連で飛ぶことが決まっているのは、今のところ3.20.の聖火到着式のみです。

開幕当日の開会式は夜になってからの開催で、VFR前提の展示飛行とは相性がよくありません。

しかしながら、プレイベントや日本団体戦初戦など、何らかの形で東京五輪2020開催期間中に、国立競技場や東京港のモニュメント上空で祝賀飛行を実施してもらいたいものです。

五輪マークでなくとも五本のスモークを真っ直ぐ引くフライバイでもいいではないですか。

そのために空域調整など様々な調整が必要なことは違いありませんが、ブルーインパルスは日本がひとつになって敗戦から復興し世界有数の国家に成長していった時代と自信を再び思い起こさせる力を有しているのです。


いまからでも遅くありません。日本中がひとつになって空を見上げる日を是非呼びかけていきましょう。

不動明王の剣


成田山新勝寺の平和大塔の中が今日まで最上階まで公開されていました。普段は二階の不動明王が祀られた仏殿までの公開ですが、上まで上がることができました。

塔内は撮影禁止で写真ではお見せ出来ませんが、最上階では、どう光を取り入れているのか、平らなステンドグラスの天井の下、四体の仏像が四方を向いて祀られた仏殿で、日常では作り得ない静寂に包まれました。

不動明王は右手に剣を持っています。その剣は人々の心にある迷いを断ち切るためのものだそうです。心の迷いとは不安とも言い換えることができます。不安が迷いを生むとも言えます。

剣は自衛隊のようでもあります。人々が不安なく平和に生活出来るのは、今の時代戦争なんか仕掛けてくる国などいるわけがないという楽観的な根拠によるものでなく、領土領海領空が侵犯されないよう自衛隊がその抑止力を発揮しているからです。聖なる剣は錆びつくことなく、日本を怒らせて抜かせてはならないという抑止の威光を示し続けています。その威光は自衛隊隊員諸士の壮絶な訓練によりもたらされ、しかしまた背景には、大国ロシアに勝ち、負けはしたけれどもアメリカに立ち向かっていった先人達の戦いにより世界から一目置かれているからに他なりません。

さて新勝寺御本尊の不動明王の御加護は大変な御利益をもたらすもので、その力は絶えることない参拝者数でも証明されていますが、その事は自分自身の身の回りのことでも感じて来ました。例えば職場で毎年頂く御札が本社から送られて来ず、熊手だけが届いた年がありました。今年はそんなものかと、大して気にもしていなかったのですが、仲間の一人が来ないことを気にして時々口にしていました。そして、仕事の大きなトラブルが頻繁に起きた時、その事をふと思い出しました。そして御札のことを問い合わせると、こちらの支店に送る手配をしていたはずの成田空港内の事務所の片隅に埃を被って放置されていたのです。すぐに取り寄せお祀りすると大きなトラブルは起きないようになりました。

その他、成田山で御祓してもらった業務用車両を、成田山で御祓してもらった車両は故障ばかりする、などと小馬鹿にする者はろくな辞め方をしませんでした。不満を持って自己都合退職し、周りに悪口を言ってかき回して辞め、結局は他でも不満が募り、戻ってきたいとこちらに打診してきましたが再入社が認められることはありませんでした。

成田山は寛朝大僧正により開山されました。平将門の乱を鎮める為、寛朝大僧正は、弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発し、大坂から船に乗り、九十九里の尾垂ヶ浜に上陸しました。そして、成田の地に御尊像を奉安し、御護摩を焚いて戦乱が鎮まるようにと祈願します。平将門が敗北し、平和が訪れ、寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げたのが、成田山新勝寺開山の場所です。

さて、成田といえば成田山と成田空港です。昭和の人間にとっては成田空港や三里塚と聞けば空港反対闘争の恐ろしい記憶が思い出されます。農民は、黄金爆弾と呼んだ肥料にする糞尿入りの袋を、機動隊に投げつけました。機動隊が嫌がるよう糞尿を体にも塗り付けました。
飛行機の写真を撮るようになって成田空港周辺を訪れるようになった頃は、そのイメージから、三里塚を通るのが怖かったものです。
しかし住んでみれば空港以前の御料牧場の余韻やシンボリルドルフなど名競走馬を輩出した牧場が残る明治以降の日本の歴史を垣間見られる素晴らしい場所でした。

反対派の中には成田空港反対闘争を平将門の呪いという人もいたそうです。その根拠は示されておらず、大地の反乱といった感情から連想したものと思われます。しかし、私はそれ以外の理由もあるように思っています。

成田空港のA滑走路の南半分は開港前の御料牧場の敷地となっています。第1ターミナル5階コンビニで買い物をすれば、そのレシートには、三里塚御料牧場1-1、とその現住所が書かれています。反対運動はこの住所近隣の周辺地域を農民が明け渡して当然と政治家が勝手に決めたことに始まりました。古くは江戸武士の維新後の失業対策のための開墾地とし、戦後は退役軍人の失業対策や食糧難対策として以前はB滑走路の方まであった御料牧場の土地を切り売りで払い下げ、開墾させたのです。それを今度は空港を作るから出て行けとなり、農民は翻弄されます。払い下げの費用はタバコ一箱程度との話も残っており、政治家がそれを軽んじた可能性もあります。しかし、開墾された農地は元々ふくよかな豊潤な土地でもなく、農民が何年もかけて耕して育てた土地でした。

機動隊、反対派共に死者も出し、大きな犠牲を払って成田空港は開港されました。

私の仮説ですが、成田空港のA滑走路は、かつての成田から三里塚を通り多古を抜けて九十九里へ出る旧道を分断しました。戦前の軽便鉄道の名残が微かに残るその道は現在の本三里塚から芝山千代田駅から少し南の千代田の交差点辺りに抜けていました。御料牧場の桜並木の立ち並ぶ目抜き通りでもありました。さくらの山、さくらの丘、成田空港の周辺にさくらの名前が付く場所があるのは、御料牧場が花見の名所であったからです。

この道は恐らく不動明王が九十九里の尾垂ヶ浜から多古を経て成田まで運ばれた道に違いありません。成田山図書館でも調べたのですが、残念ながらそのルートを記した記録はありませんでした。しかし、旧道や古来の道とはそうした昔からの道ですから、他にルートがあるとも思えません。

成田空港が尾垂ヶ浜から成田山への道を分断する。しかも農民を蔑ろにして。
不動明王がお怒りになってもおかしくなく、あるいは道の分断でそのご霊光が弱まり平将門の怨念が再び強まったと考えることも出来なくなく、それは反対闘争の中で沸き起こった平将門の呪い説に通ずるものがあります。

成田空港反対闘争は中核派など過激な左翼運動が混じり込んで複雑なものに変化していきましたが、元々の農民は退役軍人などです。塹壕を掘って機動隊に対峙した戦術は、アジアを植民地から開放したと言われる旧日本軍の技術でした。この塹壕の技術はベトナムのベトコンに伝授され、その後ベトナム戦争ではベトコンの塹壕を駆使した戦いに米軍は敗北しました。成田空港建設はベトナムに兵を送り込むための空港を羽田だけでは足りないので早く増設しろと戦勝国アメリカからの政治的外圧があって、焦って進められたとも言われています。

結局のところ、旧日本軍の戦術に成田の機動隊もベトナムの米軍も大苦戦したわけですが、お不動様はすべてお見通しで、人にとって大切なことを説き続けておられるのかもしれません。

MiG-25


304飛行隊の天狗の特別塗装機がエアーファイターコレクションからリリースされたってことで、これまでの出来も良かったので、気になって古いのも色々物色していたところ、ぶち当たってしまいました、ひとつはほしかったミグ25のモデルプレーン。

浅間山荘事件かベレンコ中尉亡命事件か。それ程にミグ25の函館強行着陸事件はショッキングな出来事でした。

機体の調査を進めるアメリカ、強く返還を求めるソ連、その間で日本はどうなってしまうんだろうと子供心に心配したものでした。

レーダーから消えて函館空港に強行着陸したことで、航空自衛隊防空網の抜け穴が露見し、その後のE-2C配備などに繋がった事は皆さんご存知の通りです。

そのアビオニクスには真空管が使われていた。それを見て時代遅れと言った人と進んでると言った人がいたとかいないとか。進んでる派は電磁波や電子戦などに真空管が強いとか、核兵器からでる放射線に強いとか、そんな理由だったと思います。

その後から今日まで続くソ連・ロシアの戦闘機の脅威を思えば、俄然進んでる派に一票ですが。