競技選手と社会 | 馬術稽古研究会

馬術稽古研究会

従来の競技馬術にとらわれない、オルタナティブな乗馬の楽しみ方として、身体の動きそのものに着目した「馬術の稽古法」を研究しています。

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より引用、加筆修正


  『引退した後、多くの選手は競技以外の世界で生きていかなければならない。


  競技人生からの降り方とは特殊な競技時代の環境から新しい社会の環境に自分を合わせ直すということだ。


  この一般社会と、競技者を取り巻く環境の特殊性に気づかなければ、前の世界の考えを実社会に持ち込んでしまい引退後の人生がうまくいかなくなる。


  以下に、競技者がもつ特性をまとめてみた。


  各スポーツ、ポジションでもかなりやることは違う。

  大きく分けてスポーツはチームと個人、対戦か一人か、意思決定の範囲はどの程度かの違いがある。


1、こだわりが強い

2、「正しさ」にこだわる

3、「仲間」を重視する



1、こだわりが強い


  アスリートは勝負にこだわる。


スポーツではだいたいゼロサムゲームになっていて、あちらが勝てばこちらが負けるという構図になっている。

  何よりスポーツにおいての勝敗は残酷すぎるほど人生を分けるので、どうしてもアスリートは勝ち負けにこだわる。


  また、競技中は苦しいことが多く、重圧も強いために、精神的に追い込まれやすい。


  そのような環境において、何か一つの信念を持ちそれを貫くことは有利に働くので、結果として競技者のこだわりは強くなりやすい。


  こうだと決めたことや信じたことを譲らない、という性質を持ちやすい。


  一方で、社会の勝敗はそれほど明確ではない。

そもそも誰がライバルかは時代によって変わるし、一部は手を組みながら一部は戦うということも起きる。


  また、そもそもゲームの根本のルールも変わる。この産業のこの戦いをしていると思っていたら、産業ごとひっくり返すようなことが起こり得る。


  一人でできることは限られているので、他者と協業する必要があり、目的のために妥協を迫られる。


  そのような環境下において、アスリートのこだわりは軋轢を生みやすい。

理想にこだわりすぎて妥協をしないので、周囲の人間が嫌がる。


  負けてはならないと思いすぎているので、一つ一つが試合のようになってしまう。

  高みを目指しすぎる意識が強すぎてムキになることも多い。


  現役時代はアスリートは「負けられない」から勝利できるが、社会においては「負けられない」のでうまくやっていけなくなる。



2、「正しさ」にこだわる


  これは特に陸上競技のような明確なルールに基づいて運営されている競技にみられる。


  スポーツは数十年変わらないルールで運用されている。

  陸上競技であれば選考がはっきりしていて、勝利の基準が明確で、あとは頑張るだけという状況に置かれている。


  そうなると「どこで戦うか」「どうやって戦うか」よりも、「どのくらい努力するか」が重要視されやすい。


  またスポーツはその過程で教育と強く結びついているので、ルール以外の紳士協定も重視するように教育されている。

  公平にかつ、倫理的に「正しい」行動をとるように習慣づけられている。


  実際の社会はスポーツと比べてあまりに多様すぎて、何が勝利なのかわからず、ルールが頻繁に変わる。

  そもそもほとんどは不公平な状況で、まるで11人のチームに対し3人で戦わなければならないような局面もある。


さらにルールや「正しい」振る舞いも業界ごとの商習慣や文化ごとに違い、

共通の紳士協定はあるにはあるが、それほど範囲は大きくない。


  (レギュレーションで)区切られて人工的に作られた、あまりに公平な環境に適応した競技者は、この不条理、不公平が当たり前の世界において、つまづくことがある。


  世間ではよくあることにも一つ一つ「ずるい」「明確じゃない」という違和感を持って立ち止まってしまう。  


  何が本当に「正しい」ことなのか、を考えすぎるのも選手の癖だろう。


  公平ではなく、持っているものがそれぞれ違うからこそ、ポジショニングや戦略が重要になるが、「公平性」を重んじる性質は、「正々堂々」を重要視するが故に、戦い方もワンパターンになりやすい。


  また、「良いものは必ず通用するはずだ」という職人的感覚から、マーケティング的な思考を嫌がる性質もある。


  もしうまく適応できない場合は、資格をとり、一定の範囲で活動するような職業の方が向いているかもしれない。



3、「仲間」を重視する


  スポーツでは仲間が力を合わせる必要があるので、仲間意識が強化されやすい。 


  また競技者は多くの時間を自分の競技のコミュニティで過ごすことが多く、

さらにスポーツの世界は指導者も固定され選手の新規参入も少ないために、流動性が低く、顔見知りのいつものメンバーだけで社会が構成されているため、人間関係が偏りやすい。


  身内を優遇し、外部に対して閉鎖的になる性質はこのような環境に適応した結果だと思われる。


  これがプラスに働けば、お互いを助け合う文化になるが、悪く出ると「ムラ」文化を作る。


  「ムラ」の世界は人間が流れないので、お互いの関係性だけに注目するようになり、俗人的で人間関係に強く配慮した意思決定をするようになりやすい。

  何が正しいかよりも、「あの人はどう思うか」や、「みんながどう思うか」で判断する。 


  「ムラ」の中で長期間過ごしていると、同じ価値観を持ったメンバーが集まっているので、社会と価値観が著しくずれていくことが起きる。


  またそれに気付けるような外部との接触もなくなる。

結果として、「ムラ」自体が社会と隔絶されていき、さらに人の流動性が低くなり、余計に「ムラ化」が加速する。 


  選手が引退して最初に苦しむのが、この「ムラ」の外の世界の世知辛さと、元いた世界との間にあるずれだ。


  苦しくなるとつい元いたスポーツコミュニティに帰りたくなる。 

  仲間もいるし、自分の立場もあるから落ち着くのはわかるが、これはあまりよくない。


  スポーツの世界で生涯やっていきたいのならそれは全く問題がないが、他の世界でやるなら、必ずこれには耐えなければならない。


  自分を知り、環境を知り適応すればアスリートの能力は発揮されると私は考えている。


  ただその際に、あまりに社会とスポーツの「違い」が大きいので、その適応のための期間を耐えられるかどうか、何が「違う」のかを見出せるかどうかが、引退後の人生には大きく影響すると私は思う。』



  馬の世界でも、


自己中心的、排他的、アナクロニズム的な言動によって、一般社会から入ってきた同僚や部下、あるいは顧客などの関係に軋轢(本人が自覚しているかは別にして)を生んでいるような、

元(現)競技選手のインストラクターとか、元名ジョッキーの調教師などというような人は少なくないのではないかと思いますが、



それらも、勝負師、スポーツマンとして過ごしてきた長年の経験の中で培われた、


・こだわりが強い

・「正しさ」にこだわる

・狭い世界での価値観や地位に固執する


といった性向から来ているのかも?

と考えれば、

少しは理解しやすいのかもしれませんね。