【遠藤のアートコラム】美術史とスペインvol.2~風変わりな画家グレコ~ | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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レオナルド・ダ・ヴィンチたちが活躍した「盛期ルネサンス」の後、引き伸ばされ、ねじれた人体や、現実離れした色彩などが特徴的な「マニエリスム」へ、そして、劇的で躍動感あふれる「バロック」の時代へと変化していきます。

今月は、三菱一号館美術館(東京・丸の内)で開催されている「プラド美術館展 ―スペイン宮廷 美への情熱」の作品を紹介しながら、スペインが誇る巨匠たちについてお届けします。

※1 受胎告知

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―エル・グレコは彼の絵画のように風変わりであった―

上は、エル・グレコ(1541-1614)の作品《受胎告知》です。
彼の絵は、一目でそれと分かるほど作風が特徴的です。

17世紀の宮廷画家ジュゼペ・マルティネスに、絵だけでなく、本人も風変わりだったと評されたエル・グレコは、本名をドメニコス・テオトコプロスといいます。

エル・グレコとは、「ギリシア人」の意味の通称です。ギリシアのクレタで生まれ、イタリアへ、そしてスペインへと渡った画家でした。

奇抜な構図、非現実的な色彩、引き伸ばされた人体、激しい筆さばき、神秘的で劇的な場面・・・
現代の感覚で見ると、まるで漫画やアニメのようだという感想を持つ人も多いようです。

※1 受胎告知(部分)

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エル・グレコがイタリアのヴェネツィアにやってきたのは、1567、8年頃だと考えられています。

レオナルド・ダ・ヴィンチがこの世を去って50年近く経ち、ミケランジェロも数年前には亡くなっています。
ヴェネツィアでは、「ヴェネツィア・ルネサンス」が花開き、ティツィアーノ(1488頃-1576)が老巨匠として君臨。
下絵をきっちり仕上げてから色を塗るのではなく、いきなり色で描いていく手法などによって、絵筆の跡が残るような自由な筆遣いで、躍動感のある作品を生み出していました。

上の作品《受胎告知》は、ティツィアーノの作品から着想を得たものだと考えられています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)、ミケランジェロ(1475-1564)、ラファエロ(1483-1520)の3巨匠が並び立って活躍していた「盛期ルネサンス」時代は、美の理想が追求されました。
バランスの良い構図、正確な空間や人体描写、最も美しい表情、立ち姿、手の形、角度・・・。

しかし、ラファエロやミケランジェロ自身、晩年になると、もっと動きのある絵を描くなど、絵の理想は変化していきます。

ヴェネツィアやローマで、グレコに衝撃を与えたのが「マニエリスム」でした。
※1 受胎告知(部分)

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マニエリスムの特徴は、不自然に引き伸ばされた人体や、非現実的な色使いです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった巨匠たちによって、芸術は頂点を極め、完成されたとする一つの考えがありました。
一方で、不自然さや不均衡にも美しさを見出し描こうとするようにもなります。

こうしたなかから、先人の生み出した「美しい様式」を繋ぎ合わせたり、芸術性を強調し、歪ませ誇張して描くマニエリスムの画家たちが現れました。

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ヴェネツィア派や、マニエリスムの影響を受けたグレコは、写実的に描くよりも、感情や視覚に訴えかける絵を描くようになっていきます。

1576年頃、グレコはスペインに渡り、時の国王フェリペ2世のために働くことを目指しました。
フェリペ2世は、黄金期のスペインの君主であり、美術愛好家でもありました。

しかし、グレコの作品はフェリペ2世には受け入れられませんでした。
グレコ独特の宗教的な解釈が受け入れられなかったともいわれます。

それでも、生前はスペインのトレドを中心に活躍し、著名な画家として名を馳せました。
しかし、死後、その名声は急速に衰え、18世紀の批評家からはっきりと嫌われてしまいます。

忘れられたグレコという画家については、昨今、徐々に理解が深まるまで、その作風があまりに特徴的なことから、視覚障害だったとか狂人だったとする説さえ登場したそうです。

マニエリスムという独特な表現が現れたのは、ルネサンス時代の後期。バロック時代との狭間です。
バロックとは、「歪んだ真珠」という意味の言葉です。初めは、不調和で過剰という軽蔑の意味が込められていました。
壮大で、激しい作品が生み出された時代です。

※2 アポロンと大蛇ピュトン

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バロック時代最大の巨匠の一人が上の作品を描いたルーベンス(1577-1640)です。

この頃は、腐敗したカトリック教会への批判が高まり、プロテスタントが誕生した宗教改革の時代。カトリック教会は巻き返しを図ろうと「反宗教改革(対抗宗教改革)」を行います。
プロテスタントは聖書に立ち返り、聖書のドイツ語訳などがなされ、華美な装飾や偶像を否定。
一方、対抗するカトリック教会は、字を読めない人でも分かりやすいように、ドラマチックで、人々を感動させる宗教画を求めました。

そのためバロック時代の作品は、激しい動きや、生々しい現実的な表現が見られます。

フェリペ2世の時代、スペインは強烈なカトリック国でもありました。
スペイン領内では、異端審問制度が広がり、イスラム教徒の排除や、プロテスタントへの弾圧、ユダヤ人の追放が行われました。

そんなスペインの支配下であえいでいたのが、ネーデルラントです。
プロテスタントの多かったネーデルラントは、スペインからの独立を目指し、八十年戦争へと突入。北部はやがてオランダとして独立します。
一方、南部のフランドルはカトリック勢力が巻き返します。

そんな、スペイン支配下のネーデルラントに生まれ、現在のベルギー・アントワープを中心に、フランドルの画家として活躍したのがバロックの巨匠ルーベンスでした。

※2 アポロンと大蛇ピュトン

artColumn15Dec2-5こちらのルーベンスの作品《アポロンと大蛇ピュトン》は、大作のための下絵ですが、大工房を構えたルーベンスの場合、完成作には弟子や共同制作者の手が多く入ることがあり、むしろ下絵のほうが画家本人の筆さばきが見られる場合があります。



23歳でイタリアへ赴き、古代彫刻やルネサンスの傑作を見て影響を受けます。
上の作品でも、骨格と肉を感じ、躍動感のあるルーベンスの見事な人体表現が見てとれます。

※2 アポロンと大蛇ピュトン(部分)

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幼い頃から宮廷作法を学んだルーベンスは、王侯貴族とおおいに交流し大人気でした。
美男で頭脳明晰、処世術に長け、ビジネスの才能もありながら、信仰心や道徳心も持ち合わせていて、思慮深く家族思いという、美術史上屈指の人物です。

7か国語を操ったともいわれるルーベンスは、26歳のときには、外交官としてスペインを訪れています。このとき、フェリペ2世が蒐集したラファエロやティツィアーノの膨大な作品も目にしたようです。その後イタリアで活躍しますが、31歳頃アントワープに戻り、次々と舞い込む仕事をこなしました。

殺到する注文全てを自ら描くわけにはいかず、上のような油彩下絵をつくって、助手や共同制作者の手本にしていました。
彼は制作過程を明らかにし、自らが関わった度合によって値段を決めていたそうです。

※2 アポロンと大蛇ピュトン(部分)

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宮殿のような家を持ち、大勢の弟子達のなかからは、後の有名画家も排出しています。
晩年には、スペインとイギリスの和平交渉を進める外交官としても活躍しました。

当時のスペインの王はハプスブルク家出身でした。

オーストリアを中心に勢力を伸ばしたハプスブルク家は、結婚によってネーデルラントや、スペイン、ナポリ、シチリアなどの王となっていきました。
スペイン系ハプスブルク家の最盛期に君臨したのがフェリペ2世です。

しかし、その後、スペインが誇る無敵艦隊がイギリスとの海戦で敗退。
スペインの栄光は陰りはじめるのです。

こうしたヨーロッパの国々の盛衰は、画家たちにもおおいに影響を及ぼしていきました。

参考:「プラド美術館展 ―スペイン宮廷 美への情熱 」カタログ 発行:読売新聞東京本社



※1 エル・グレコ 《受胎告知》 1570-72 年
油彩・板 26.7×20cm プラド美術館蔵
© Archivo Fotográfico, Museo Nacional del Prado. Madrid.

※2 ペーテル・パウル・ルーベンス《アポロンと大蛇ピュトン》1636-37 年
油彩・板 26.8×42.2cm プラド美術館蔵
© Archivo Fotográfico, Museo Nacional del Prado. Madrid.


<展覧会情報>
「プラド美術館展 ―スペイン宮廷 美への情熱」

2015年10月10日(土)~2016年1月31日(日)
会場:三菱一号館美術館(東京・丸の内)
開館時間:10:00~18:00(金曜、会期最終週平日は20:00まで)※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜休館(但し、祝日の場合、12月28日、1月25日開館)
年末年始休館:12月31日、1月1日

展覧会サイト:http://mimt.jp/prado/
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600





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