レジェンド "キャンピージー" | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

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オーストラリア・ラグビー界のレジェンド 「デビッド・キャンピージー」。

"ラグビーファミリー" 塩谷さんが投稿されたキャンピージーの画像やコメントを拝見しながら、今も日本にキャンピージーファンが多いのを知り、何とも嬉しい気持ちになった。


今日10月21日はキャンピージーの59歳の誕生日、来年は彼も還暦の域に達する。

88年にシドニーに移住した私は、ワラビーズのテストマッチはもちろん、州代表のゲームを観戦し、また、ローカルなクラブ選手権のゲームでさえ、ランドウィック・クラブのクージー・オバール(我家から車で15分)で、何度も彼のプレーを目の当たりにした。

 

当時、ランドウィック・クラブにはワラビーズのフロントロー3名(マッケンジー、キアンズ、デイリー)、ロックにはウォー、フランカーにはポイデビン(元ワラビーズ・キャプテン)、スタンオフにはライナーの後継者となるノックス、そしてキャンピージーが所属していた。

彼らのプレーが近所のフィールドで観戦出来る良い時代だった。

テストマッチ出場回数101回。

ワラビーズが優勝した91年W杯のオールブラックス戦や準決勝のアイルランド戦の活躍は特筆ものだが、私が忘れられないのは、88年のブレディスローカップ(NZとの伝統のテストマッチ)と89年の「ライオンズ V ワラビーズ」戦なのだ。

 

ブレディスローカップでは、オールブラックス「ジョン・カーワン」のディフェンスに阻まれて1トライも出来ず、逆にカーワンに軽々とタックルをかわされ、屈辱的なトライを奪われた。

ライオンズ戦では奇才ボブ・ドワイヤー監督の発案からキャンピージーをフルバックに起用したが、度重なるミスを連発、メディアはこぞって「キャンピージー引退か!」と書き立てた。

気落ちするキャンピージーに、母親のジョーンは詩を贈る。

ピッチに立つ前に、小さな紙切れに集中するキャンピージーの映像が残されている。

その後、キャンピージーは見事に復活し、91年W杯では大会全体のMVPを受賞する。

 

現役引退後、"キャンプ・イージー"と銘打ったジュニア向けのキャンプが開催され、私は息子2人をそのキャンプに参加させた。それから、彼はシドニーのロックスという旧市街に "キャンポーズ" というラグビーショップを開店した。

歩道にテーブルを置き、コーヒーやケーキが楽しめたが、訪ねるとカーワンがキャンピージーと談笑していたり、ラグビーファンにはワクワクするナイススポットだった。

私は時々突拍子もないことを考え、それを行動に移すが、やってみないと気が済まないのだ。

オーストラリア移住も、独立も起業も、仕事に関わる様々な試みも・・・

例え失敗しても、後で後悔するより、私はやって後悔した方が良いと考えるタイプなのだ。

 

日本の私の世代から考えれば、キャンピージーは 「王、長嶋」 のような存在だろう。

私は"キャンポーズ"を訪ね、単刀直入に彼に日本向けのビジネスの提案を持ち掛けた。

そうは言っても、私は企画書も何も持たず、私が頭に描いていたのは "キャンプ・イージー" の日本版だった。

彼は、私の申し出にあっさり「OK」した。

 

カンタス航空がスポンサーになってくれ、日本のジュニア向けにラグビー・デベロップメント(普及・発展)キャンペーンを開催することとなったが、一番喜んだのは、イベントに参加する少年少女たちよりも付添いのお父さんたちだったに違いない。

いずれの会場でもサインを求めようとする少年少女や父母の長蛇の列が出来、キャンピージーは嫌な顔一つせず、最後の一人になるまでサインし続けた。

03年には、ジュニア向けのキャンペーンの他に、有楽町朝日新聞「朝日ホール」にて「W杯オーストラリア大会の展望」について講演、04年には有楽町外国特派員クラブにて「坂田好弘氏とのウィング対談」も開催して、多くのラグビーファンを喜ばせた。

 

99年/京都(山科音羽中学)、東京(東芝府中)、栃木(宇都宮総合グラウンド)

00年/福岡(コカコーラ・ラグビー場)、山口(維新公園)

03年/東京(東芝府中/秩父宮/朝日新聞朝日ホール)

04年/神奈川(横浜・関東学院大学)、東京(外国特派員クラブ)

2000年のキャンペーンの際、福岡での開催後、山口での開催までに1日予備日があった。

シドニーで訪日の準備をしていた時に、日本のラグビー仲間から、私の親しくしている関西の高校ラグビー部の選手が頸椎を捻挫し病院に入院しているという連絡があった。

訪日中にキャンピージーにそれを伝えると、彼は「励ましに行こう!」と即答した。

ただ、彼は一つ条件を出した。

その条件とは「絶対にメデイアには知らせないこと」だった。

メデイアが知れば、その選手や家族が美談のさらし者にされ、選手本人はもちろん、家族、関係者に至るまで、更に辛い思いをすることになるのを彼は知っていた。

 

事前に先方に連絡し、博多から新幹線で出発、コーチングコースで親しくなったコーチ仲間が我々を新大阪駅でピックアップし、車で直接病院に向かう段取りとなった。

病室を訪れると、その選手は特別な装置が施された車椅子に固定されていたが、キャンピージーは選手に優しく声を掛け、彼の目の前でテストマッチ101回出場を記念して作られたオリジナル・ラグビージャージにサインし、それを彼の胸の上にそっと置いた。

「機会を見つけて、また来るけど、その時君はグラウンドに立っていなければダメだよ!」

 

その時、その選手はキャンピージーがどんな偉大な選手かを知らなかったかもしれない。

それでも、20年を超えた今も、瞼に涙をいっぱい溜めた選手の笑顔を私は忘れない。

病室で様子を見ていたご両親も同行された先生も泣き出してしまった。

 

「お礼の晩餐と宿泊を・・・」という申し出があったが、丁重に辞退させていただいた。

博多まで戻る道中、それをキャンピージーに伝えると、「もし、お前がそのオファーにイエスと答えていたら、俺はお前を殺しただろう!」と言って無邪気に笑った。

当時、キャンピージーは37歳、私は44歳、学ぶことの多い感動の一日だった。