若き日の渋沢栄一と興譲館に想う | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

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渋沢栄一を描いたNHK大河ドラマ「青天を衝け」

第18回を観ながら、私は25年前にタイムスリップした。

 

ドラマ終了後のナレーションで岡山県井原市にある興譲館高校が紹介された。

一橋家を強化するために、栄一は徳川慶喜に新たな傭兵召集を建白、慶喜の命を受け栄一は一橋領のある備中(現在の岡山県)に向かうが、傭兵志願者を募るという大任に結果が伴わない状況で、栄一は漢学者である坂谷朗廬(さかたに ろうろ)に出逢う。

一橋家に仕官中であり「尊王攘夷」の志を持つ栄一を前に、漢学者には珍しく「開国」を唱える坂谷朗廬、栄一はそんな坂谷の教えや意志を貫く一徹な姿勢に感銘を受け、それを切っ掛けに二人の親交が深まっていく。

 

ドラマに描かれているのはここまでだが、1853年に一橋家の有志によって開校された郷校「興譲館」(後の学校法人興譲館高校)の初代館長を坂谷朗廬が務めた。

校門には栄一が揮毫(きごう)した扁額(へんがく)が飾られている。

*参考文献/渋沢栄一の軌跡・興譲館の校門

(註)郷校(きょうこう)とは江戸時代から明治初期に設立された教育機関/揮毫とは毛筆で書かれた言葉や文章/扁額とは門戸や室内などに掲げる横に広い額

1997年に私は岡山県井原市の興譲館高校を訪ねた。

広島県の福山駅からバスに乗り、山や畑に囲まれた牧歌的な道を抜けて井原市街に到着、確かバスの終点(バスデポ)が興譲館高校の近くだったと記憶している。

昨今は高校女子駅伝で注目を集めているが、私が訪ねた目的はラグビー部のコーチングだった。

 

当時、私はコンタクトスーツ(ラグビーのNZ製トレーニンググッズ)の販売を手掛けており、購入してくれた全国津々浦々のチームを訪ねては、有効な使用法やコーチングの手法、トレーニングのアイデア等を指導して歩いた。

例え1着の購入でも、北は北海道から南は鹿児島まで出掛けて行った。

現在の興譲館高校にラグビー部はなくなってしまったようだ。

当時はパソコンもメールも無く、ワープロで作成したダイレクトメールを送付、興譲館高校ラグビー部からFAXで発注書が戻って来たが、注文数は1着。

「1着でも購入して下さったチームにコーチングに伺います。コーチング要/不要」 

新しい商品であり、その行商の基本として、私はダイレクトメールにそう記載したのだ。

届いた発注書にはコーチング要に大きな〇が付けられていた。

 

放課後、顧問兼監督の先生に挨拶、三々五々選手が集まって来たが、選手は全部で8人だった。

私は8着のコンタクトスーツを大きなバッグに入れ、それを背負って移動していたが、その全てを使い、トレーニングを開始した。

8人でも50人でも、やるからには真剣にコーチングするのは当然だが、思いの外、選手たちの一生懸命さに心打たれ、また熱心にメモを取る先生の誠実な姿勢にも好感が持てた。

痛いトレーニングを選手達が楽しんでいるのを肌で感じ、ふと気が付くと、辺りは薄暗くなっていたが、その時の生徒たちの笑顔を私は今も忘れない。

 

充実したトレーニングが終了、私は選手達に今後への期待と励ましの言葉を残し、この機会を作ってくれた先生に礼を述べ、グラウンドを離れようとした。

その時、先生に声を掛けられた。

ラグビーについては素人同然、化学を教えているというラグビー部顧問兼監督の先生・・・

「加藤さん、素晴らしい機会を本当にありがとうございました。あんなに活き活きとした選手達を観たのは初めてです。ただ、ラグビー部の現状は御覧の通りで、部費も少なく毎年ボールだけで終わってしまうんです。それでも、今回のお礼にコンタクトスーツを更に2着、私の自宅に送ってくれませんか。私が自費で購入しますので」

 

8着のコンタクトスーツをバッグにしまい、それを背負い学校を離れようとすると、先生と選手たち全員が私をバスデポまで送ってくれた。

私はバスの後部座席を確保して彼らに手を振ったが、バスが見えなくなるまで彼らは手を振り続けてくれているのが確認できた。

バスは福山駅に向かっていた。

畑と山に囲まれた暗闇の中にポツンポツンと見え隠れする民家の灯りを眺めながら、私は放心したように興譲館高校での数時間の出来事を思い浮かべていた。

 

一橋家の家臣となった栄一が、この地の村人と同じ目線で畑仕事をし、村人たちと喜びを分ち合う光景をドラマに描かれていたが、思い返せば、全国を渡り歩いたあの頃の私も、栄一と同じような気持ちだったのかもしれない。

一橋家の家臣である栄一の立場は、オーストラリアのラグビー(当時は99年W杯優勝に向かう黄金時代の真只中)が錦の御旗となった私の立場に似ている。

栄一の謙虚な姿勢は、そのまま私自身が心掛けた信念のようなものだ。

一橋家の傭兵志願者を集める手段として、例えば栄一が村人に自らの誠意を見せて信頼関係を築いたように、私もビジネスよりも指導者や選手たちからの信頼の方が大切だった。

*若き日の渋沢栄一

65歳となった今、残念ながら、私は渋沢栄一のような輝かしい道を歩むことはなかった。

それでも、ドラマに描かれた若き栄一の姿に自分の歩んできた道を重ね合わせることは出来る。

95年から98年の4年間に、足を踏み入れていない県は3県だけ、延べ200以上の学校や企業チームを訪ね、コンタクトスーツを使ったコーチングの指導や提案をして歩いた。

数多くのコーチとの友情は、その機会に始まり、20有余年を超えて今も続いている。