サラリーマン時代の記憶 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

ここを歩くのは何年ぶりだろう?

東京滞在中に、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている巣鴨を訪れた。

年間900万人が訪れるというこの街は、江戸時代、日本橋を出発して、旧中山道の最初の休憩地として商業が発展したというが、この地蔵通り商店街にはどこかその名残が感じられる。

 

"ソメイヨシノ" 発祥の地であり、秋には菊の名所として菊花盆景の展示を楽しむことができ、今も菊の花に因んだ俳句の会などが毎年営まれるそうだ。

江戸時代、各街道の入り口に建てられたという江戸六地蔵の一つが眞性寺門前に鎮座している。

明治24年には、"とげぬき地蔵尊" 高岩寺が上野から巣鴨に移転し、その地蔵が延命地蔵として病や心のトゲを抜くと言われたことから、巣鴨はおばあちゃんの聖地となったようだ。

この通りを実際に歩いてみれば、確かに、原宿の竹下通りの少女たちをおばあちゃんたちに置き換えたのが巣鴨地蔵通り商店街と言えなくもない。

可愛いファッションを扱うお洒落なショップの代わりに、店先に分厚い真っ赤なメリヤスの女性用パンツをズラリとぶら下げた下着専門店、パフェやクレープのスイーツ・ショップの代わりに、甘酒、せんべい、塩大福や大学芋を売る店が軒を連ねている。

 

江戸時代創業の店も多く残っているようだが・・・

総じて古くも新しくも見える昭和の商店街という感じがする。

昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で巣鴨周辺は焼け野原となり、古い街並みは軒並み焼失したそうだ。

眞性寺も焼け落ちてしまったそうだが、江戸六地蔵のお地蔵さんだけは焼け残ったという。

巣鴨周辺には空襲で被災された人々を焼いて葬るための大きな穴が数多く掘られていた、と巣鴨からほど近い文京区本郷で生まれ育った母から聞いたことがあった。

巣鴨地蔵通り商店街の入り口付近に昭和27年(1952年)創業の巣鴨萬盛堂薬局がある。

昭和31年度の経済白書の序文に「もはや戦後ではない」と記載されている。

その通りなら、昭和27年はまだ戦後の復興期であり、私の生まれた昭和30年もぎりぎり戦後の時代に属するようだが、なんと私もそんな世代なんだ!と驚くばかりだ。

 

東北大震災から8年弱の復興状況を観れば、設備も資材も潤沢でなかった戦後7年の昭和27年頃は、まだまだ戦争(東京大空襲)の爪痕が残っていたことだろう。

そんな渦中に巣鴨萬盛堂は創業し、70年近く地域住民の健康や生活を見守って来たのだろう。

実は、この薬局には私にとって忘れられない思い出があった。

 

昭和55年(1980年)、私はライオン株式会社に就職、東京23区の小売店を対象とした営業部SP(セールス・プロモーション)グループに配属された。

いわゆる販売促進を職務とする部署であり、入社間もない私にとって、日用品市場を知るためには、うってつけの部署だったに違いない。

 

私の担当地区は、練馬区と板橋区、そして池袋のある激戦区の豊島区だった。

巣鴨地蔵通り商店街には幾つかのお得意先があり、萬盛堂も私の担当販売店の一つだった。

当時は、まだ大型ドラッグストアのようなチェーンは存在しなかった時代だったが、萬盛堂はいつも店頭に様々なメーカーの日用品等を山積みして、値引きを目玉に集客を図ろうとする大型ドラッグストアの先駆けのような薬局だった。

日用品とは? 当然、どこの店でも購入できることが求められる。

SPの役割は、強豪他社に対抗しながら、広く自社製品の取り扱い促進を図ることだった。

しかし、それは言うほどに簡単ではなく、例えば販売店間の価格競争により、小売店の販売意欲を下落させ、延いては取扱い意欲まで失わせてしまうという現実があった。

 

店頭での日用品の安売りを目玉に集客力を高め、利益率の高い薬品や化粧品の販売を目論むドラッグストア(薬局)の業態が増え始め、そのような変化が一般の雑貨屋など個人経営の小売店(パパママ・ストア)には大きな脅威だった。

例えて言えば、獰猛(どうもう)なブラックバスの繁殖により川や湖の生態系が変り、他の魚がいなくなってしまうのと同じような現象が、我々の業界にも起こりつつあったのだ。

実際、商品の取り扱いを止めたり、最悪は廃業を余儀なくされる小売店も出始めていた。

独占禁止法という法律のため、メーカー側は販売店に対する販売価格の強制や指導は許されず、安売りを断行する販売店に丁重にお願いして配慮を求める以外に対処法は無かったのだ。

 

荒っぽい商売でも、厳しい生存競争の中、安売店が "消費者の味方" なのは間違いない。

実際、訪日中、妻がそんな安売店で買い物を楽しんでいるのを見ればよく分かる。

しかし、メーカー側にとっては、販売店同士の価格競争の結末を考えれば、全て販売店の立場を考えなければならず、その是正に日々努力しなければならなかったのだ

 

新入社員時代、まずはその原理原則や流通機構、対処法等を先輩社員から脳裏に叩き込まれた。

日用品に限らず、電化製品、衣料品、食品や飲料品・・・ 

いかなる素晴らしい製品でも、価格競争に巻き込まれれば商品寿命が短くなると言われている。

したがって、あらゆるメーカーが、自社製品の販売価格の安定にナーバスになっているのだ。

 

一般に、あくまで一般にだが・・・ 

荒っぽい売り方をする販売店の店主は荒っぽい人が多かった。

益してや戦後の混乱期を生き抜いて来た商店には、間違いなく一筋縄ではいかない店主がいた。

ライオン製品には、荒っぽい売り方、いわゆる安売りの目玉になる製品が多かったのだ。

周辺の販売店からは毎日のように苦情が相次ぎ、どうしてあの値段で売れるの! 全商品が高いと思われてうちには客は一人も来ない! あの店に文句言って来いよ!・・・ 

それが日常茶飯事だったが、そう言いたくなる気持ちは理解できた。

 

巣鴨萬盛堂はこの地域では跳び抜けたリーダー店である。

この地区の担当になった頃、いつも店頭を横目でうかがいながらそそくさと通り過ぎた。

荒っぽい店主がいるかどうかなど知る由もなく、見て見ぬふりをしていれば、1年もすれば私の担当地区は変わるだろうし、周辺の販売店には適当に言ってゴマかしとこう。

そう思いながらも、私は逃げている自分が許せなかった。

バブルが膨らみ始めた頃で、大きい資本が小さい資本を土足で踏みにじるような時代だった。

「新しくこの地区の担当になりましたライオンの加藤と申します」 丁寧に名刺を渡した。

「珍しいね、ライオンさんのセールスがうちに来たのは初めてだよ」 

店主はそう言って笑った。

一瞬、原理原則、対処法を大仰に語っていた先輩方の顔が浮かんだ。

過去の担当者は誰一人、この店とまともに向き合わなかったのだ! 

彼らも、行くべきか? 見過ごすべきか? きっと悩んだに違いないが、何なんだよ! 偉そうなこと言いやがって! 正直、ガッカリさせられた。

 

予想以上に平穏に店主との会話は続いたが、「弊社の主力商品を店頭で安売りするのを止めていただく訳にはいかないでしょうか?」 と私が切り出した瞬間、顔色が変わった。

ただ、彼は私がそう切り出すのを予想していたに違いなかった。

 

「この地蔵通りには、日本中からおじいちゃんやおばあちゃんがやって来るのを君は知っているよね。みんな高い電車賃を払ってここを訪れ、虎の子の金で家族にお土産を買って帰る。それを楽しみにしているんだよ。我々は、それにお応えするために、まがい物じゃないお宅の商品のような良いものをこうして利益を削って提供しているんだよ」

その真剣な眼差しや言葉に私を調子よくあしらおうという心は感じられなかった。

 

「御社のような値段で販売出来ない小売店がたくさんあります。そんな小売店はお客様から何もかもが高いというイメージを持たれ、これからの経営も心配な状況になってしまうと思うんです。日用品ですから、どこの店でも購入できるような商品として、適正な利益を確保して販売して頂くわけにはいかないでしょうか」 

私は、まさに先輩方から指導されたままを棒読みしているようだった。

 

「君はこの地区をどれだけ知っている? それから、どんな歴史を知っている?」

「・・・・」

「この商店街は、江戸の昔から続く店と戦後間もない頃に出店した店が上手に共存共栄して発展して来たんだよ。そんな長い歴史の中で、それぞれの役割があって、うちはこの通りに大勢の客を引き寄せる役割を担っているんだよ」

「・・・・」

「企業努力をしない店は、これから何がどうあっても生き残れないだろうね!」

「・・・・」

 

確かに、この地区のリーダー店の店主として、巣鴨地蔵通り商店街全体の繁栄を願い、それを考えていないはずは無かった。

 

当たって砕けろ!の気持ちだけで、地蔵通りの由来も東京大空襲の歴史も何も知らず、不勉強のまま、私が店を訪問していたのを完全に見抜かれていた。

「よし、分かった!この店を一日君に任せるから、君が全部値付けをして売ってみるといい、君がいつもと同じだけ売り上げたら、うちはその値段で売ることにするよ」 

その口調は厳しくキッパリとしていた。

「・・・・」 

私に言い返す言葉は無かった。

お客様が引っ切り無しに出入する店頭にも関わらず、情けなくて不覚にも涙がこぼれて来た。

 

セールスマンの原点と言うか、その基本や厳しさを教えられたのだ。

豊島区を担当した時代、私はこの近くを通る度に、必ずこの巣鴨萬盛堂に立ち寄った。

そして、徐々にメーカー側の立場で話す私の要望も聞き入れてもらえるようになった。

店主から「電車でおいでよ」と言われ、近くの古い焼き鳥屋でご馳走になったこともあった。

ノコノコ現れたドン臭い不器用なメーカーのセールスマンの勇気を店主は評価してくれていた。

今回、久しぶりに巣鴨地蔵通り商店街を訪れたが、巣鴨萬盛堂薬局は3店舗に増えていた。

また、その周辺の小売店は便利さを売りにするコンビニに変り、当時いつもお茶をご馳走になった個人経営の雑貨屋は、お年寄りが好む趣味の店として生き残っていた。

見るからに老舗のボンボンという風貌だった旦那さんは亡くなり、いつもお茶を入れてくれた高齢の奥さんが私の再訪を喜んでくれた。

原点を顧みることの大切さを感じた小さな旅だった。