ドラゴンの魂 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

ウソのようなホントの話である。
結婚して直ぐ、習志野に住んだ妻と私は津田沼駅近くにある少林寺拳法の道場に入門した。

会社のラグビー部で現役を続けており、なぜそんな突拍子もないことをしたんだろう? 

私には入門時の記憶が一切無く、妻もそのいきさつを覚えていない。

それでも、2人で半年間ほど通った。

 

天地拳・調息法・鶴立拳など、少林寺から伝えられたという作法?(鍛錬法?)を習った記憶やその動きはかすかに体が覚えている。

私たち2人の35年前の確かな記憶は、師範代の所作の美しさやそのカッコ良さ、それと、拳を打つ時に出る"ヒュッ"という音は感動の極みだった。

津田沼のヨーカドーに買い物に出て、単に見とれて入門したのかもしれない。

つい先日、FOX World Moviesで 「Birth of the Dragon」 という映画を観た。

2016年に製作され、今年日本で公開されたようだが、ブルース・リーがメジャーになる前のサンフランシスコでの苦難の時代(1960年代半ば)を描いた実話という想定のようだ。

ブルース・リー役のフィリップ・ンが登場する場面で、「Nine years before Enter the Dragon (燃えよドラゴンの9年前)」 というサブタイトル(字幕)が出る。

私の世代から更に20年ほど遡(さかのぼ)った世代までなら、このサブタイトルを読んだ瞬間に、間違いなく、この映画を観てみたいと思うに違いない。

43年の時を経て、どうしてブルース・リーを描いた映画が製作されたのだろう?

ストーリーの展開は、実話というよりもフィクションに近いようだ。

顔や物腰が、伏見工業(現京都工学院)ラグビー部の高崎監督と桐蔭学園ラグビー部の藤原監督(日体大コンビ)を足して2で割ったように見える少林寺の修行僧ウォン。

少林寺の流派間で闘う場面(立会い評価法/少林寺拳法では試合をそう呼ぶ)から映画は始まるが、この闘いに勝ったウォンは、その時点で少林寺を代表するカンフーの達人となるのだ。

このシーンは、あの「燃えよドラゴン」の最初のシーンをイメージしているに違いない。

本家少林寺の評価法(競技会)を勝ち抜いたウォンはサンフランシスコに派遣される。

その頃ブルース・リーは武道家としても映画俳優としても中途半端で、中国発祥の武術を中国系以外のコーケイジャン(白人に対する差別呼称)にまで広めようとしたことで、彼は裏切り者として中国系コミュニティから反感を持たれていた。

 

ウォンはその現状の視察の任を担い、状況次第では刺客としてサンフランシスコに派遣された。ブルース・リーは、本家少林寺の伝統や精神を尊重するウォンの来訪を知るが、自己の置かれた立場に危機感を抱き、 ウォンに闘いを挑む。

その2人の狭間にアメリカ人青年が登場する。

彼は元々ブルース・リーの弟子だったが、少林寺の修行僧ウォンの清廉な心やカンフーの神髄・精神に惹かれブルース・リーの元を去る。

 

映画を観ながら、私はそのシーンを自分自身に置き換えて考えることがよくある。

私は鍵っ子だった子供の頃から古いイタリア映画を好み、染み着いた習慣なのかもしれない。

 

ブルース・リーの置かれた境遇に、私が辿った過去の日を思い浮かべた。

シドニーで起業し、先行きに少し灯りが見えた頃、同じような会社が雨後の竹の子のように誕生し、邪魔をされたり、横槍を入れられたことがあったが、我々のようなチッポケな家業が、大きな資本や名のある人物に土足で踏み荒らされるような経験もした。

もちろん、そんなことはよくある話なのだろうが、当時は真剣に悩んだ。

 

ブルース・リーが恐れたのは、ウォンが本家少林寺から派遣された武道家だったからだろう。

私は主にラグビーに関わる仕事を生業としていた。

コツコツ努力を重ね、ある程度の成功体験もあり、これからという時、目の前に現れたのは元代表として活躍した連中、彼らはセカンド・キャリアへの転身が目的だったのだろう。

協会や大手旅行代理店や他にも多くの企業が忖度する状況に、私は脅威を感じるばかりだった。

現在、当時、私が脅威に感じた会社は一つも生き残っていない。

 

カンフーブームに乗じて、アメリカには様々な流派や道場が乱立し、政治家やマフィア、ビッグネームの介入、そんな中でブルース・リーはモガいていたようだ。

そんな中で、弟子や友人が、例え一人でも離れて行く時の寂しさに耐えていた。

正直、私はそんなブルース・リーの境遇に共感を感じながら映画を観続けた。

ところが、残念なことにこの映画にはそんな繊細な人間模様は描かれていなかった。

今はアクロバティックさやCG画像が受ける時代で、センチメンタルさでは売れないのだろう。

高校時代(1973年)に公開された「燃えよドラゴン」は、カンフー映画の最高傑作である。

観終わった後に、誰もがちょっと斜めに顎(あご)を上げて、「どこからでも掛かってこいや!」と言わんばかりに映画館から出てくる。

もちろん、私もそんな一人だった。

後に続く「仁義なき戦い」シリーズで、更にイキがって映画館から出て来るようになった。

イキがったままラグビー部のキャプテンになった先輩がいたが、私にはそのような根性というかヤンチャさが足りなかったのかもしれない。

どちらかと言えば「寅さん路線」に流れてしまった。

 

ブルース・リーは、1970年に公開された「ドラゴン危機一髪」の大ヒットで一躍大スターへと駆け上がり、「ドラゴン怒りの鉄拳」 「ドラゴンへの道」とヒットが続く。

そして、1973年の「燃えよドラゴン」で世界的大スターの地位を揺るぎないものにするが、「燃えよドラゴン」の空前の大ヒットを知らないまま、その年の7月に彼はこの世を去った。

死因は謎に包まれたままのようだ。

ブログを書き出したものの、何が言いたいのか分からず、最後をどう締め括ればよいか?

私の部屋の壁には学生時代の写真が一枚だけ飾られている。

私にも「ドラゴン」のような眼をした時代があったのだ!

その魂はいつまでも残していたい。