どこかで誰かがコントロールしているのではないか?と思うことがある。
「そんなの単なる偶然だよ」 と一笑に付されるかもれない。
確かに、それは単なる偶然なのかもしれない。
それでも人や物との出逢いに、私は時々「それって奇跡だぜ!」と驚くことがある。
1993年に、ノンフィクション・ノベル「死に至るノーサイド」が出版された。
その直後、その本を母が日本から20冊送ってくれた。
1988年にオーストラリア・シドニーに移住した私は、日本人の血を引くワラビーズ(ラグビーのオーストラリア代表)が存在したという史実に衝撃を受け、その足跡を追い駆けた。
私の手探りの追跡を兄が描いた著作であるが、具志川記念文学賞を受賞した。
沖縄県具志川市(現在のうるま市)がふるさと創生資金を投じて主催したノンフィクションを対象とした文学賞だが、直木賞作家の井上ひさし氏、直木賞作家でノンフィクションの巨匠と言われる吉村昭氏、芥川賞作家の大城立裕氏と錚々たるメンバーが選者で、朝日新聞が後援した。
私と兄の2人だけの兄弟、弟の実体験を兄が描き、それが文学賞を受賞した訳で、母にとっては、さぞかし嬉しかったことだろう。
ただ、残念だったのは、受賞の3ヶ月前に父が鬼籍に入ってしまったことだ。
母はいつも感情をむき出しにした。
大いに喜び、また泣き・・・
私の大学時代、試合のメンバーとして新聞に名前が載っただけで、わざわざ駅前の新聞販売店に出向き、大量の新聞を買い込む人だった。
兄の作品を、ノンフィクション作家 "山際淳司氏" が週刊誌の1頁を使って紹介してくれた。
彼はプロ野球などの著作を数多く残し、徹底的な取材を通じ、通り一遍の根性論などで片づけられる傾向の強かったスポーツジャーナリズムに一石を投じた人だ。
スポーツ界改革の期待を背に、このコラムを書いた2年後に47歳の若さで他界してしまった。
この週刊誌も母は大量に買い込み、シドニーの私に送ってきた。
さて、私が主人公として描かれた貴重な20冊・・・
実の主人公は数奇な運命を辿った日系人ワラビーズ「ブロウ井手」であるのは分かっている。
「この人に読んで欲しい」
そう思う人に、私は表紙の裏に「贈 XX(姓名)様」、その下に日付と私の名前を書き入れて、直接その本人に手渡した。
ラグビー関係者が多く、私が "ワラビーズに日本人が居た" と書かれた新聞記事に大きな衝撃を受けたように、誰もがその実在の人物に驚きを隠さなかった。
また、私の説明を聞いた誰もが文学賞受賞の快挙に驚き、手渡された本を手放しで喜んだ。
結局、自分の分を残すのを忘れ、私は20冊全部を手渡してしまった。
ノンフィクションであり、作品にはありのままが描かれているが、あの当時、私はシドニーに寄港する船舶(主に日本船)に食糧や土産品を供給する港湾に出入りする業者だった。
入港時に食料や土産品の注文を取り、出港までに商品を調達する仕事で、時間に追われる仕事だったが、日本で培った営業の仕事がそのまま役に立った。
商談の相手は、主に司厨長(厨房を預かるコック長)が中心だったが・・・
コンテナ船、巨大なタンカーや車両運搬船への営業は、日本とオーストラリアの経済活動(貿易)の根幹を担う船舶事業の実態を知ることが出来たが、その船員達から聞く生の話は、知らなかった世界を垣間見るようでとても興味深かった。
更に、あの頃数多く入港したマグロ船の乗組員とはよく飲みに出掛けた。
「板子一枚下は地獄」と言われる世界で生きる男達、彼らが見せる荒々しさと家族や子供への掛け値のない心優しさのミスマッチに人間的な原点が感じられた。
豪華客船「飛鳥」も顧客であり、厳選された最高級食材を調達しなければならない緊張感があったが、何度も"まかない飯"をご馳走になり、調理スタッフからレシピを習ったりもした。
時には船内の客室やエンターテインメント・セクションを覗かせてもらったりもした。
生涯、船から降りることのなかったピアニストを描いた"船上のピアニスト"という映画がある。
私が最も好きな映画だが、「飛鳥」体験は、あの映画を更に身近なものにしてくれた、
南極観測船「しらせ」は、南極までの往路は西オーストラリアのパースで食料品等の物資を調達し、帰路はシドニーで不足していた新鮮な野菜や、日本への土産品などを調達する。
任期を終え、日本に戻る途中の越冬隊員から聞く南極に関する生の話は、映画や報道番組の裏側を垣間見るようで実に面白かった。
93年の「しらせ」に乗船していた越冬隊長(その年で退任)から、シドニー寄港時に天然芝のテニスコートを探して欲しいと依頼があったが、そんなエスコートも私の仕事の一部だった。
車で案内したが、その道すがら、なんと彼が私の高校の先輩であることを知った。
宇都宮高校から北大に進み、極地研究所に務めるエリートである。
高校時代はテニス部員だったそうだ。
私はラグビー部員だったことを話したが、彼がふとこんな話をした。
「一緒にテニス部に入部し、途中からラグビー部に転向した同級生がいるんだよ」
その同級生とは、私の高校・大学のラグビー部の先輩で、私にはとても身近な人だった。
当然話に花が咲き、その先輩が92年度早大ラグビー部監督として、93年1月の大学選手権決勝戦で終了1分前に法政大学に逆転され、大学日本一を逃したことを話したが、彼はその頃昭和基地の隊長として越冬中だったため、それを知らなかった。
天然芝のテニスコートでプレーを満喫し、私は彼らを「しらせ」に送った。
偶然にも同じ高校の出身であり、「船内のラウンジで一杯」ということになった。
何千年もの昔に閉じ込められた空気がパチパチと音を立ててほとばしる "南極の氷" を入れたウイスキーのオンザロックをご馳走になった。
話題は南極やその日のテニスから、徐々にラグビーに変わり、その話題に「死に至るノーサイド」の話も登場し、著者の兄も同じ宇都宮高校の卒業生であり、ウイスキーの影響も相まってか、話はどんどん盛り上がった。
幻の日系人ワラビーズを追い駆けた私の体験が、彼の研究者として血を刺激したのかもしれないし、また、南極での長い越冬生活で、そのような話に飢えていたのかもしれなかった。
出港の際に、私は「死に至るノーサイド」を一冊彼に手渡した。
もちろん、表紙の裏には「贈 XX様」と書き入れ、日付も私の名前も書き入れた。
今後の交流も期し、私の連絡先も渡した。
日本までの航海中に読み終え、丁寧に感想の綴られた手紙が日本から私の元に届いた。
シドニーには「本だらけ」という日本書籍を扱う古本屋がある。
近くを訪れる度に必ず覗いてみるが、探すのは、決まって「死に至るノーサイド」なのだ。
ただ、日本の古本屋でもそうなのだが、ほとんど見つけたためしは無い。
それだけ出版数が少ないということかもしれないが、文庫本にもなった訳だし・・・
ある日、ハードカバー(単行本)が1冊、棚に置かれているのが私の目に飛び込んできた。
早速手に取り、表紙を開く。
「贈 XX様」 そして日付と私の名前が記されていた。
あの20冊の内の1冊が、シドニーの古本屋の棚に置かれていたのだ。
「アレ!どうして?」 と一瞬私は固まり、きつねにつままれたような気持ちになった。
それは正に、南極観測船「しらせ」の出港時に越冬隊長に渡した1冊だった。
不可解な気持ちのまま、私はその1冊を自ら購入した。
本人の名誉のために記しておきたい。
その1冊は、きっとオーストラリアに留学する若者に贈ったものだろう。
「オーストラリアの文化や歴史を知ることの大切さ、そして知れば知るほど言葉の壁にぶち当たることになるが、それに負けるな!」というメッセージが込められ、この本が手渡されたはずだと私は信じるし、もちろん、それを確認する必要はない。
私にはこの1冊が愛おしい。
この1冊は日本とオーストラリアの間を旅し、20年の歳月を経て私の元に戻って来たのだ。
私はこの1冊をいつでも手に取れる目の前に置いている。