いつまでも心に生き続けて欲しい! | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

誰からも愛され、多くの教え子から恩師(人生の師)と慕われた指導者が逝ってしまった。

99年に出逢い、それからの約10年間に、日本とオーストラリアでどれだけの時間を共有し、どれだけのやり取りをしたか私には分からないほどだ。

”礼を尽くす” 典型のような人だった。

 

やり取りの方法が手紙からメールに移行し、05年から残るメールの履歴は数百回を超える。

元々「筆まめ」だったが、携帯でのメールのやり取りを覚えてからは、毎日のようにメールが届くようになり、お気に入りの「クージービーチ」をメールアドレスに使っていた。

出逢った頃は、私達家族のオーストラリア移住から10年が過ぎた頃だったが、その後の10年間に、私が最も深く影響を受けた一人だった。

年の初めと終わり、私は彼のメールに始まり、彼のメールに終わるを恒例にしていた。 

山口正昭、享年72歳・・・

高校ラグビー界に彼を知らない人はいない!と豪語できるような存在だった。

ただ、スクールウォーズなどで高校ラグビーが注目され、結果を残した同世代(ラグビー仲間)の多くが脚光を浴びるようになったが、彼は自分自身よりもそんな仲間の心の支柱となり陰から支える存在だった。スクールウォーズの主人公は大学の同期生である。

「僕はチームを優勝させることができなかったから・・・」とよく笑った。

 

そうは言うものの、彼自身も輝かしい実績を残しているのだ。

長崎で生まれ、松山で育ち、日本体育大学で学び、教員として岐阜に赴任する。

輝かしいラグビーの歴史には縁遠い新天地岐阜県において、関市立関商工高校ラグビー部を全国屈指の強豪校に伸し上げ、ベスト4など、全国区に導いた。

決して目立とうとはせず、例えば花園ラグビー場を歩いていても、記者が寄ってくるような存在ではなかったが、それでも、多くの指導者が彼に頭を下げていたのを私は知っている。

とにかく、自分よりも仲間や教え子が評価されるのを手放しで喜ぶ人だった。

大仰な大義名分を語ることなく、心から地元を愛し、岐阜のスポーツ発展に努力した人である。

私が出逢った当時、彼は熱のこもった指導を続けていたが、実際は指導者として血気盛んな時期を過ぎ、後継者を育成する時期に差し掛かっていたのかもしれない。

彼自身はコーチの現場を譲ろうとしていたものの、後継者候補に求める基準はとても高かった。

長年培ってきたカリスマ性を乗り越えるコーチを育成したいと願っていたはずだが、そんな彼の未来予想図は道半ばのままだったのではなかろうかと私は想像する。

 

父親は船乗りだったそうで、彼は若い頃に本気で海外移住を夢見たことがあったと話していた。

若い頃の夢を、シドニーで暮らす私や私達家族に重ねていたのかもしれない。

白血病の闘病生活を開始するまでに、十数回オーストラリアを訪れた。

彼は、ラグビーは元より、自然や歴史・文化、そして何より人を愛する人だった。

忘れられない思い出は数知れないが、その中で「関商工ラグビー部のカウラ遠征」は、この人でなければ実現しなかったプログラムに違いない。

その遠征については、2012年11月のブログ「遠征と歴史への旅①②」で紹介した。

 

あの遠征以降、私は彼を伴って数回カウラを訪れている。

時には桜の咲く季節(10月)だったり、真冬や真夏に訪ねたこともあった。

太平洋戦争中、カウラには捕虜収容所が存在し、そこに1104人の日本人捕虜が収容されていたが、彼はその史実に真剣に目を向けた日本人の一人だった。

長崎で2歳の時に原爆を体験し、戦後の苦しい時代を生き抜いた彼は、例え戦争の記憶は無くても、その歴史に真面目に向き合った人だった。

 

戦後、カウラ市には日本人墓地や立派な日本庭園が整備されたが、その間4kmの道の両側に桜の苗木が植樹され、桜並木(Sakuraアベニュー)が整備された。

その一角に関商工ラグビー部が遠征時にカウラ市に寄贈した「関商工ラグビー部の桜」がある。

生きて日本の地を踏むことの出来なかった兵士への鎮魂を願い、彼が寄贈を申し出た。 

2人でカウラを訪ねた際、彼は桜の木の根元を掘り、そこに「タイムカプセル」を埋めた。

タイムカプセルには、99年の第一回オーストラリア遠征に帯同した恩師、「平田大栄先生」の遺品や写真が詰められていると聞いたが、私はそれを見ていない。

「今の私があるのは、大栄先生のお陰なんです」

私は何度もその話を聞かされた。

大学卒業後に岐阜に赴任し、所謂 ”よそ者” だった彼を平田先生がいつも守ってくれたという。

平田先生は関商工ラグビー部の第一期生であり、第一回オーストラリア遠征に参加された。

 

カウラを訪ねる機会があれば、私は必ず「関商工ラグビー部の桜」を確認する。

5月の訪日の際に病床の彼に届けたいと思い、何枚かの葉を持ち帰っていたが・・・

結局、それを彼の手に届ける機会は訪れなかった。