湯島かいわい | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

"湯島かいわい" で不動産業を営む友人がいる。

彼は湯島の魅力を 「この街に住み暮らし、商いをする人々の心の温かさにある」と言う。

創業から4代続く老舗だが、時代が移り変わり、湯島の街並みが大きく変貌を遂げる中で、そこに息づいた人々の心には何ら変化は無いと彼は言い切る。

家族ぐるみの付き合いの中に、なるほどどこか懐かしい人情味が感じられる。

どこまでの範囲を "湯島かいわい" と呼ぶのか? 私には定かではない。

日本を訪れたオーストラリアのラグビーコーチの誰もが好む "アメ横" も含まれるようだ。

幼い頃、よく母から上野や湯島界隈について聞かされたことがある。

と言うのも、母の生まれは本郷であり、母の父親(私の祖父)はこの地域を管轄する本富士警察所に奉職する刑事だったのである。

戦前戦中、祖父は特高警察(社会主義運動や左翼の政治運動、右翼の国家主義運動などを取締まる組織)に所属し、母の実家にはよく東大の学生などが出入りしていたらしい。

太平洋戦争末期に宇都宮市に疎開し、そのまま宇都宮に移り住んだらしい。

 

私の友人は、約40年近く、"湯島かいわい" というタウン誌の発行を続けている。

このタウン誌の初号を彼の父親が発行し、その後を彼が引き継いだそうだが、40年継続するのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。

私など2年ちょっとのブログの更新でもアップアップしているというのに、言わずもがな、"湯島を愛するが故に出来た偉業” に他ならない。

湯島界隈には由緒ある坂がたくさんある。

グレープ(さだまさし作詞作曲)で有名になった "無縁坂"。

不忍の池から歩き出せば、東大に至る登り坂であるが、「しのぶ、しのばず無縁坂」の歌詞は、きっと不忍(しのばず)の池に因んで作詞されたものであろう。

訪日の際、成田空港に向かう前に、よく不忍の池の周りを散策するが、さだまさしも私と同様、この界隈に母の思い出を感じていたのかもしれない。

 

湯島天神に前にある "切通し坂" の名も良く聞く。

その名は湯島から御徒町方面への交通の便を良くするために新しく切開かれた坂が由来らしいが、石川啄木が朝日新聞に勤めていた頃、毎日通る坂を詠んだ短歌「二晩おきに 夜に一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなれかな」にその名が登場する。

そんな啄木の碑が湯島にはある。

私が生まれた昭和30年(1955年)の大ヒット映画「女系図 湯島の白梅」、その映画の主題歌に ”青いガス灯境内を出れば本郷切り通し” とその名が登場し、全国区になったようだ。

 

他にも「見返り坂」「妻恋坂」・・・ 

湯島界隈の数ある坂には、それぞれに隠れたストーリーがあるに違いない。

私達夫婦に晩酌の習慣はないが、ほとんどアルコールを口にしなかった妻が、彼から頂いた "湯島の白梅" という梅酒の味に目覚めてしまったようだ。

前回「新宿末廣亭」をブログに書いたが・・・ 

"湯島かいわい" 第70号記念の巻頭に「湯島は落語や時代劇の舞台には欠かせない場所、江戸の気配が街のそこここに脈々と感じられます」と、二代林家三平師匠が投稿を寄せている。

湯島界隈が、父親の "初代林家三平" に連れられて子供の頃に歩いた身近な街として描かれているが、病院や食堂の名がそのまま書かれ、正にこの街の人情味の厚さが窺えるようだ。

 

そう言えば、この街にも、新宿末廣亭と並ぶ「東京の落語定席」(365日いつでも落語の聴ける場所)の「鈴本演芸場」がある。

いつか、この "湯島かいわい" をゆっくり探検してみたいものだ。