早大時代の腹心の友 日下 稔 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

「腹心の友」という言葉が話題になった。

身体の中心にある腹と心(胸)に例えて、"深く信頼できる友" という意味で使われるようだ。


かれこれ何年になるだろう? 私の10月の誕生日に必ず電話をくれる後輩がいる。

日下 稔 早大ラグビー部の1年後輩だが、私は1年留年したため、彼とは卒業同期なのだ。

彼は山口県の日新製鋼に就職し、私は東京のライオンに就職、後に私はオーストラリアに移住、大学卒業後の30年間に数回しか再会する機会は無かったが、彼は私の腹心の友である。

 

卒業後、毎年 "早慶戦" の後に、早大ラグビー部時代の白井監督と梅井コーチに因んで「白梅会」という親睦会が開催されるが、訪日と重なり、1度だけ参加したことがある。

日下と早慶戦を観戦し、その後で会場まで青山通りを渋谷に向かって歩いたが、途中で偶然私の同期に出逢い、飛び出した言葉が「お前ら、今もつるんどるんか?」だった。

卒業から35年以上が経過しているのに・・・ その言葉が私には嬉しかった。


先週、私は50代最後の誕生日を迎え、当然のように彼から電話があった。

ワクワクするような目新しい情報が聞ける訳でも無く、間も無く還暦を迎える年齢になっているものの、私は彼の声を聞くとなぜか心が和むのだ。

学生時代、2人つるんでよく旅に出た。

それから、一緒によく映画を観に行った。

新宿西口のスバル座で観た映画「明日に向かって撃て」に感動し、その主人公ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダス・キッド(ロバート・レッドフォード)に自分達を重ね合わせてその気になり、300円の映画が我々二人にはどれだけ価値のあるものだったか・・・

 

実在の銀行強盗の生きざまを映画化した名作である。

南米のボリビアで警官隊や軍隊に包囲され、互いに風前の灯の運命を悟りながら「次はオーストラリアに行こうぜ」 と合意し、二人が走り出すシーンでストップモーションになる。

ボリビア軍隊長の 「ファイアー」 という合図で一斉射撃の銃声が鳴り響く。

封切りから45年、映画史に残る素晴らしいラストシーンだが、幾つになっても、何回観ても、ストーリーは分かっていても、あのラストシーンは私の心を揺さぶるのだ。

その影響でもあったのだろうか? 私はオーストラリアに移り住んでしまった。

あの頃、日下は私によく言った。

「俺、ちょっとロバート・レッドフォードに似てね?」

なるほど、そう言われれば、レッドフォードを日本人にしたような気もしないでもない。

その内、カンフー映画が流行れば「俺、ちょっとジャッキー・チェンに似てね?」と言った。

なるほど、そう言えば・・・

 

日下は國學院学院久我山高校ラグビー部が初めて全国制覇を達成した時のキャプテンだった。

高校日本代表として英国遠征に参加し、言ってみれば鳴り物入りで早大ラグビー部に入部し、4年時にはバイスキャプテンやBKリーダーを担った男なのだ。

昭和54年(1979年)、シーズン初戦の東大戦、キャプテン金澤をケガで欠き、日下がキャプテンとしてこのシーズンを占う大事な一戦を戦った。

私もあの試合に出場したが、彼はキャプテンとして、私の前にいるいつもの日下ではなかった。

キャプテン日下の采配に私も奮闘し、あの試合でロックだった私は2トライを記録した。

 

「加藤さんがそう言うなら、俺はそれを信じるよ

彼の私に対するスタンスは昔も今もずっと変わらない。

早大ラグビー部への入部決定後、私と同部屋になる予定だったが、高校代表の英国遠征でケガをして、帰国後に入院を余儀なくされ、入寮が遅れた。

東京の自由が丘出身、全国高校大会(花園)の優勝キャプテン、高校日本代表という経歴を持つ新入部員、一体どんな奴がやって来るのだろうと正直不安な気持ちだった。

西武新宿線東伏見の寮に現れた彼は、私が想像したイメージとは全然違っていた。

自身の経歴を誇示するような男ではなく、謙虚でユーモアを感じる言動が私には心地よかった。

その後、互いに忖度することも気遣うことも無く、自然に信頼を深めていった。

 

血気盛んな頃に育んだ友情は実に貴重である。

伝統の赤黒ジャージが着れるかどうか?

互いにボーダーライン上にあり、共に励まし合ったが、どちらかが落ち込んだ時期もあった。

怪我や入院、そして復帰までのリハビリ、先の見えない状況も何度かあった。

ただ、どんな困難な状況下でも、決して "傷の舐め合い" だけはしなかった。

 

日新製鋼の東北支店長として、東日本大震災では苦労の連続だったに違いない。

あの時の苦労を彼は私に一切話そうとせず、「あの時は頑張ったよ!」とだけポツリと言った。

震災当日、心配で電話を掛けたものの、当然彼に電話は通じなかった。

随分後になってから、「あの日は東京に出張中で、新潟経由で何とかして仙台に戻ろうと頑張っていたところだったんですよ」と連絡があった。

 

毎年彼が私の誕生日に電話をくれるように、私も彼の誕生日には電話を掛ける。

今年は12月初旬に訪日を計画しているため、彼の誕生日には直接会って一献傾けよう。