年明け以来、セミナーやキャンプの準備に追われ、3月はその実施に集中した。
4月になり、そろそろラグビーから少し離れられると思っていた。
とんでもない! 日本では「春の選抜高校ラグビー大会」が開催されている。
3月のセミナーを桐蔭学園で実施、7月には彼らがオーストラリア遠征にやって来る。
東海大仰星高校は3月初めにオーストラリアで強化キャンプを実施たばかりだった。
この2チームが選抜大会で準決勝まで勝ち進んでいるのだ。
願ってもないことだが、今月も私はラグビーから離れられそうにない!
春の選抜大会、結果的に桐蔭学園は準決勝、東海大仰星は決勝で敗れてしまったが、スタッフ・選手の気持ちや努力を知っているので "敗戦も良し!" という気持ちになっている。
セミナーやキャンプの成果が短時間で出るはずも無く、私は両チームのこれからの発展に大きな期待を寄せるばかりで、彼らの着実な積み重ねを信じているのだ。
何をかいわんや、全国を舞台に準決勝や決勝進出は凄いことなのだ。
オーストラリアでキャンプを実施する際に、いつもフレンドリーに対応してくれるサンシャインコーストの地元クラブの役員が一新された。
会長には、NZ出身のトニーから変わって、スコットランド出身のデビッドが就任した。
トニーはNZ人らしくラグビーをこよなく愛する男だ。
ホームステイを実施する際には、息子のためにと必ずチームのキャプテンを連れて帰る。
片やデビッドは、スコットランド訛りが強く、優しいカントリーボーイという感じがする。
私がこの地を訪れて以来、クラブの会計を担当する親友のスコティーが、デビッドとの会話の後に、「Toshi、お前の英語の方がまだ分かり易いよ!」と笑う。
何か褒められているのか貶(けな)されているのか分からないが、デビッドはスコットランド北部の田舎から3年前にこのサンシャインコーストに移住したという。
サンシャインコーストの明るさが気に入り、この地に住んでしまったそうだ。
言ってみれば、彼も私と同じ、オーストラリアに魅せられた一人なのだ。
3月後半、東海大学ラグビー部のオーストラリア・キャンプが実施された。
キャンプ開始直後に足を捻挫した選手がいた。
その状況で、彼は彼なりに可能な限り努力し、スタッフの仕事も積極的に手伝っていた。
そんな彼を見掛けたクラブの会長デビッドが、彼に「Masa!」 と声を掛けている。
「あれ、いつの間に知り合いになったんだろう?」
その瞬間、デビッドの幼い息子が、「Masa!」 と、嬉しそうに彼に駆け寄った。
2年前の東海大仰星の遠征で、デビッド・ファミリーの家庭にホームステイをしたというのだ。
再会を喜ぶ彼らを眺めながら、私まで心温まるような気持ちになったが、私には「こんな笑顔を見るために、この仕事を続けているんだ!」と思う瞬間だった。
キャンプ中のエピソードは数限りない。
その一つだが、朝のビーチセッション中、私には重要な役割がある。
ビーチセッションは裸足で行われるが、選手達の貴重品やシューズを守ることだ。
近年はオーストラリアでも高級品と言われるスポーツグッズが一般向けに出回るようになったが、その中で日本製は人気があり、私はそれらを守らなければならない。
盗まれることは滅多に無いが、選手のセッションへの集中を考えれば、重要な役割なのだ。
この地域に住む住民の多くが、朝早くからビーチサイドで散歩やジョギングをしている。
高齢者が目立つが、その誰もがフレンドリーである。
シューズの横にいる私に、多くの住民が声を掛けてくる。
「どこから来たんだい?」
「楽しんでるかい?」
そのすべてが好意的だ。
近くのカフェかレストランの関係者なのか?
「全員でブレックファスト食べに来ないか !? ディスカウントするぜ!」
それが楽しい朝の会話になることも多く、毎朝私を元気にしてくれる。
見るからに優しそうな老人と30分ほど話し込んだことがあった。
老人の名は ”ファーザー・ジョン”、近くの教会の牧師だと言う。
朝の散歩中に声を掛けてくる一般のフレンドリーな住民同様、普通に声を掛けて来た。
「来週から、私はパプアニューギニアに出掛けるんだよ」
牧師だと言う彼がバケーションに出掛けるとは思えず、思わずその目的を尋ねた。
彼は静かに私の質問に答えた。
「第二次世界大戦中、パプアニューギニアで戦死した兵士の慰霊に行くんだよ」
それを聞いた瞬間、私の脳裏に日系人ワラビーズ ”ブロウ・井手” のことが浮かんだ。
前の晩のミーティングで、私は学生達に「ブロウ」の映像を見せながら、彼の数奇な運命(日系人でありながら父の祖国日本と戦って戦死)について話したばかりだった。
選手達は、ことのほか熱心に聴いていた。
私はファーザー・ジョンに、日系人ワラビーズ「ブロウ」の辿った人生を短く話した。
1938年にワラビーズ(オーストラリア代表)でプレーし、太平洋戦争中にシンガポールで日本軍の捕虜となり、地獄と言われた泰緬鉄道建設の労役を強いられ、輸送船で日本に護送される途中、フィリピン沖でアメリカ軍の魚雷で戦死。
私の話を聞きながら、ジョンの目元に涙が溜まっていくのが分かった。
「あの日本のボーイズに、その話をしてくれたんだね」
ジョンは2度繰り返した。
学生スタッフが、何かトラブルでも起こったのかと心配そうにジョンと私を眺めていた。
ジョンがゆっくりと話し始めた。
「友人の一人だったロバートは、ニューギニアで日本軍の捕虜となり、護送船で日本に送られ、戦後オーストラリアに生還し、余生をこの街で暮らしていたけど、昨年亡くなったんだよ」
太平洋戦争中に日本軍と戦った豪軍兵士、いわゆる退役軍人にオーストラリア政府は、このサンシャインコーストに土地や家を与え、その多くがこの町で暮らしているのを私は知っていた。
かつて、このサンシャインコーストで、留学中の日本の大学生が、第二次世界大戦で日本とオーストラリアが戦ったことも知らずにパブで遊び惚け、老いた退役軍人から怒りを買ったという事実も私は知っていた。
ジョンは、太平洋戦争中に戦死した豪軍兵士を慰霊するために、毎年パプアニューギニアを訪ねているそうで、機会を見つけて、一緒に行かないか?と誘われた。
ラグビーのトレーニングキャンプがあるために、7月に再度この地を訪れると伝えた。
「是非、再会しましょう」
そう言ってジョンは私に彼の連絡先をくれた。