オーストラリアへの留学生や移住希望者 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

スポーツ王国オーストラリアへの移住に憧れを持つ人は多い。

でっかいオーストラリアでノンビリ暮らす、そんなキャッチフレーズに憧れる人も多い。

ただ、「必ず行きます」「絶対に行きます」と言って、今までに来た試しはない。

そういう連中は決まって同じことを言う。

「良い仕事は?」「何を準備すれば?」「何をしてくれますか?」・・・

そして、彼らは何年経っても同じことを言っている。

移住に完璧な出発などあり得ないのだ。

 

ユーカリ堂(ミニコンビニ&喫茶店)を経営していた頃のことだ。

客の中に、親のクレジットカードを持ち歩き、贅沢なお遊学をしていた若者がいた。

「親の会社の経費として、月に30万円を使わないといけないんです」

英語を真剣に学ぶでもなく、スポーツをやるでもなく、オーストラリアらしい体験に挑戦するでもなく、毎日朝から晩までユーカリ堂の店内で漫画を読んでいた。

その内に、彼の姿は消えた。

ちょうどバブル崩壊の頃だったが、店を訪れる若者の間で様々なうわさが飛び交った。

「親の会社が倒産したらしいですよ」

日本のバブル崩壊は91年から93年と言われている。

私が92年にユーカリ堂を開店した頃、バブルの申し子と言うか、日本では通用しないと思われる若者達が留学生やワーホリとしてシドニーの街に激増していた。

 

そのほとんどが住み易いボンダイ地区に住み、私達には客が増えてラッキーだった。

ボンダイビーチの玄関口 ”ボンダイジャンクション” には、そのような留学生の集客を当て込む日本語情報センターが開店し、情報提供がお金になる新しいビジネス展開を開始していた。

会員制で、そこに行けば、日本で発売される漫画やドラマがリアルタイムに見ることができた。

まだ携帯もネットも一般的では無かった頃で、そこに行けば日本の情報を知ることが出来た。

 

あの時代、ポジティブな若者、特にそんな男子を見る機会はどんどん減っていた。

逆に女子は男子よりも割り切り方が大胆だった。

バブル期に急増した日本企業の駐在員を相手に、クラブやカラオケバーでホステスまがいの夜の仕事をする若い日本人女子がどんどん増えていた。

政府公認のマッサージ・パーラー(性風俗店)の広告には「日本人います」という但し書きまで付けられるようになっている有様だった。

プロの風俗嬢が日本を離れてシドニーくんだりまでやって来るとは考えられず、そのほとんどは留学生やワーホリで訪れた若者達だったのだろう。
オーストラリアから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はそのような留学を批判するつもりは無い。

逆に、それぞれが一念発起して一歩踏み出したことを評価したい。

上から目線丸出しに、そのような留学生をゴミ屑のように見下しながらその店に通う社用族は多く、そんな店を接待代わりに使う日系企業も多かったようだ。

会社の名前が無ければ何の存在意義も無いような連中に比べ、誰にも迷惑を掛けずに身体ひとつで頑張る彼らを応援こそすれ、批判など出来るはずもなかった。

 

ユーカリ堂にはそんな若者たちもよく顔を出した。

そんな若者たちが、ビザ満了と共に日本に帰国するのをよく見送ったが、明確な意志を持ち、やるだけやった彼らから、後悔の言葉を聞いたことは無かった。

「必ず、また戻ってきます!」

本当に戻って来る若者は多く、新たに努力して就労ビザや永住権を獲得する若者もいた。

 

オーストラリアでの経験を基に日本で起業し成功している元留学生もいる。

大学、それもラグビー部の後輩に型破りの男がいた。

大学卒業後の86年に、彼は私と同じ企業に就職してきたが、私は88年にその企業を退社してシドニーに移住してしまった。

すると、数年後に彼も退社し、シドニーまで私を追い駆けて来た。

 

礼儀やマナーは別として、私は彼の無鉄砲ぶりが好きだった。

年代が重なっていないため、私は彼の大学時代を知らなかった。

彼が私の勤める企業の就職面接にジーンズでやって来たのも随分後になって知らされた。

それでも、入社後は得意先からとても信頼されたようだ。

上司とは随分火花を散らしたようだが、私には身を粉にして奔走する彼の姿が想像できる。

 

会社のラグビー部では、残念ながら彼の活躍については一切記憶がない。

おっちょこちょいな部分や時にはハメを外すこともあったが、それでもラブリーな男だった。

当時、ラグビー部監督(慶大OB/英語堪能で国際事業部)のお宅に招待された時のことだ。

やはり慶応OB、住まいは鎌倉、芝生の庭でのバーベキューという我々には何とも場違いな雰囲気の中で、ワインを頂けながらセレブなランチをご馳走になった。

徐々に酒量は増え、ふと彼が居ないことに気付いた。

 

悪い予感がした。

まだ幼かった監督の娘2人がキャーキャー騒ぎ始めたと思った瞬間、逃げ回る2人の娘を彼が追い駆け回しているのが見えた。それだけなら何のこともないが、トイレの便座を引き抜いて、それを頭の上にかざし、「牛だぞー!」「闘牛だぞー!」と叫びながら追い回していたのだ。

セレブのランチが一気に修羅場になった。

その後輩がシドニーにやって来た。

型破りだが、即断即決の男であり、「行きます」と言う前に彼はシドニーに到着していた。

当時、私には彼を雇う力や余裕は無く、日系情報誌を発行する知人の会社に紹介した。

「何をやらかすか分かりませんが、是非、彼の可能性を見出して下さい」

彼の就職は決まり、それに伴って就労ビザも申請され、無事発給された。

 

日系情報誌のほとんどは広告代で経営を賄っているが、彼は英語力などものともせず、営業としてどこへでも飛び込んで行き、彼なりの自己流で信頼を得、実績も上げていたはずだ。

1年が過ぎた頃、彼のやり方が気に入らないと、経営者夫婦から何度も私宛に苦情が届くようになり、紹介者として多少の責任は感じたが、それでも彼の入社を決断したのは彼らであり、1年以上彼を働かせた訳で、彼の仕事に関する責任の所在は彼らに在ると私は放っておいた。

 

拠りどころを失った後輩の気持ちを思えば、彼に手を差し伸べなかった自分が恥ずかしい。

結局、彼はシドニーを去った。

それから1年も経たずに、その情報誌は廃刊となった。

情報誌の会社や経営者がどうなってしまったのか?

その後、出逢う機会も無く、一切耳にすることも無い。

 

後輩にも、その後出逢う機会に恵まれないが、日本で起業した噂を聞いた。

情報誌の営業で親しくなったサプリメント会社(オーストラリアは健康食品等のサプリメント大国である)から、輸入/ネット販売を確立して大成功したようだ。

その後は、時代の流れを読みながらガーデニングの会社を起業し、前途を期待される若手経営者として大活躍しているようである。

 

カラオケに行くと、彼は必ずビートルズの「ロング アンド ワインディング ロード」を歌ったが、私はポール・マッカートニーよりも彼の歌うあの曲が好きだった。

きっと彼は、”長く曲がりくねった道” を猛牛のように猪突猛進しているに違いないが、いつか、彼の歌うあの曲をもう一度聞いてみたいものだ。