先日の揺れであの「3・11」当時の記憶が蘇りました。
あの後、ある会社の代表がこんなことを語ってくれました。

当時、工場の自動倉庫などが地震で傾くなど動かない状況がありました。
つまり、製品はあっても出荷ができないわけです。
しかも、自動倉庫などは高く積み上げられて人を寄せ付けない構造です。

そんな状況を誰もが知りつつも、ある取引先の責任者が、
「自動倉庫に登って、製品を納入しろ!」と。
「お客さま」という立場を楯にとった手前勝手な指示です。
その会社というよりは、その責任者の人間性ではないかと思いますが、
いざというときには本性が表われてくるのかもしれません。

状況が状況なだけに無理難題です。
担当者は対応に窮し、その代表に相談したところ、
「私が直接、対応するから大丈夫だよ」と、
毅然とした態度で臨んだということでした。
そのときには、責任者の怒りは収まらなかったようですが、
のちに、そのことを謝罪してきたようです。

包装界でも、顧客との関係はどうしても上下的なところがあります。
その点、海外では比較的にパートナーといった関係ですが、
それでも、日本にはない階級という上下があります。
「上下」という構造がけっして悪いわけではないでしょうが、
それに心まで乗じてしまっては何も生み出しません。

大河ドラマの「軍師 官兵衛」が放送されていますが、
黒田官兵衛が名軍師と称される所以も、
上下構造に乗じない心の強さにあるのではないでしょうか。

いずれにしても、わが同郷の師・福澤諭吉の言葉のように
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と、
人としてどちらが上でどちらが下というものではありません。

そこに、互いの“思いやり”がなければ大事は成りません。
あえていえば上は下を思いやり、下は上は尊する心を持つ。
もちろん上と下だけではなく、右と左も同じことです。

互いに互いを思いやる、クロスオーバーする心が
たとえば危機にあっても、最善の事を成し遂げる。
いや想像以上の事を成し遂げる、知恵と力になるに違いありません。
そんな心の関係を築くことができれば幸せです。
「官兵衛」についに中津城が登場ですね。
あっという間に過ぎ去ってゆく気配ですが、
私がはじめて黒田を知ったのは確か、
あの吉川英治氏の小説「黒田如水」だったと思います。
こんなイメージだったかなぁ~と。
今秋の関東同窓会では、なんと6回生の向野一さんが
貴重な耶馬渓線の映像などとともに
校歌を入れたオリジナルDVDと参加者のお土産として作ってくれます。
毎回何らかのDVDをつくられているというからすごい。
その向野さんから、こんなメールをいただきました。
「6回生は10月8日9日に中津で同期会があり、
それもほとんどが重病人状態です。大河ドラマにあやかった
最後の同期会として必死の思いで81名以上集まります。
多分力尽きて以降御免なさいとなるでしょう」と。
歳には勝てないとはいえ、
毎回、そんな思いで必死に出席してくれている大先輩がいると思うと、
頭が下がります。
ちなみに、向野さんは毎回の役員会にも参加してくださり、
私の母方が向野という姓でもあることから、
家系の資料を送ってもくれました。
背に学ばねばならない大先輩の一人です。
その校歌は、高校時代に何度となく歌ってきたわけですが、
不思議に歌詞の一部は憶えており、つい頭を過ぎることがあります。
それは三番の
「福沢精神承けつぎて/ああ独立自尊の/中津北高校」という歌詞です。
その独立自尊とは、福沢氏はこう記しています。
「心身の独立を全うし、自から其身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」
私は、心身の独立の第一義は健康であると考えていたと思います。
なぜなら、彼はウォーキンを日常として、
当時、慶應義塾にウォーキングクラブを作ったと聞いたことがあります。
また尊重してには自らだけでなく、
他者の身ということも考えていたに違いありません。
今秋の同窓会での校歌斉唱では、その意味をかみしめながら、
私一人ではなく、同期とともに、同窓のみなさんとともに
しっかりとかみしめながら歌いたいと思います。
たぶん、泣くでしょう~。それも見どころの一つです。はい。
かつて聞いた話をときどき思い出します。
「滝の水をおちょこで汲もうとしても、
 水が跳ねて汲めないでしょ」と。

これは人の器についての話しで、
小さな自身の器では大きな成果は得られない、ということです。
なかなか自分で自分の器を知るということもむずかしいですが、
それ以上にどうして器を広げるかは、さらにむずかしい。

好きなものを食べ、好きなことをやり、好きなところへ行き、
好きな人と楽しむ。
誰もが望むことだと思いますが、それでは器は広がならい。
不思議なものです。器を広げるには器の外(未知)に出るしかない。
それは好きではないもの、
場合によっては嫌いな人とのつき合いかもしれない。

その意味で、社会というのはよく出てきています。
そうした望むものだけでなく、望まないものとのつき合いで成り立つ。
「人は人でしか磨かれない」といいますが、
つき合う社会が広ければ広いほど、大きければ大きいほど
未知の世界が広がるほどに、自らの器が広がる可能性は大きいわけです。

「強敵が人をば善く成しけるなり」とはよくいったものです。
理由はどうあれ、他人のため、社会のために力を尽くすことは、
そのまま自身の器を広げることになるのでしょう。
よく意を誤解している人もいますが、
「情けは人のためならず」とはそのことでしょう。

自分のことで汲々としているときは問題を解決できず、
それも忘れて誰かのために汗をかいていると、
いつしか自分の抱えていた問題も解決していることがあります。
不思議なものです。

「人のために火を燈せば、我が前も明らかなるがごとし」です。
滝の水を汲みたいと思わなくても、滝つぼのような器でどかっと構えれば
一体、どれほどの水を入れることができるでしょう。

そんなことを考えつつ、今日は眠ることとします。