神輿を担ぐ | ジェイのブログ

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山本七平氏の説がおもしろい。たとえば戦前の「天皇陛下万歳、鬼畜米英」を叫んだ人が、戦後に「マッカーサー万歳、民主主義万歳」へと豹変したことについて、庶民大衆はいずれも本心から信じておらず、ただ絶対的存在として祭り上げていただけで、戦前戦後、本質的には何も変わっていないという。
祭り上げているものは変わったが、構造は何一つ変わっていない。人々の習慣や常識にしたがって日々の生活をくり返しているだけだと。だが、絶対化されてしまうと、それを批判できないような「空気」ができてしまうということだ。
ただし、ほとんどの人は天皇や民主主義、米国とは何かなど考えたこともないにもかかわらず、自明の真理でもあるかのうように、それを担ぎ出す。誤解を恐れずにいえば、日本全国の祭り行事の神輿を彷彿とさせる。言い換えれば、何を担ぐかではなく、何かを担ぐことに意味を見出し、主体性を発揮しているのである。
こうした国民性の良し悪しを考えても仕方がない。私は「水は方円の器に従う」との言葉が好きで、それは「水」の器に従うとの主体性があるとともに、(主観であるかもしれないが)従うことで従わせているといった意味があるように思うからだ。
だが、アフターコロナの新時代を向けて想うことは、そろそろ与えられた「器」ではなく、真に従える「器」を、われわれ自身が選択する時期に来ているのではなかろうか。