生きる場所 | ジェイのブログ

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南米・コロンビアのジャングルに小型機が墜落した事故で、40日ぶりに13歳、9歳、4歳と生後12か月の乳児の子ども4人の救出が報じられた。4人は先住民族の子どもで、日常的に森のなかで生きる術を身に着けていたようだ。

かの教育者のデューイは「学校とは『学ぶ場所』であるだけでなく、何よりもまず『生きる場所』」と考えていたようだ。カリキュラムや教育方法が画一的であることを「重力の中心を子どもに置いていない」とし、学校が子どもたちが「生活」をする場ではなくなっていると指摘する。
当時も今も、さして変わらないようにも思わる。デューイのいう学校が「生きる場所」になっているであろうか。もちろん、それはそのまま、サバイバルを教えるということではなかろう。
 「子どもは未成熟の段階であるのに対して、大人は成熟した段階である」というように、誰もが、どこか教育の最終的な到達点があると考えがちであると指摘する。「人間は誰もが未完成で、学び直していく存在であり、教師も子どももともに生き、互いに豊かな学びを生成する場が学校」と。
 また、デューイは「『学校』とは今すでにある社会に子どもを順応させる場所ではなく、これから向かうべき社会への発達の『芽』を宿した場所である」とも。学校とは、社会の要求や圧力から免除され、実験や失敗も許容されながら、人間の可能性を開いていくべき場所で「理想の社会の萌芽となりゆく場所」というのがデューイの教育論の核心のようだ。
 もちろん生活する場は、学校だけに止まるものではなかろう。子どもたちには不可欠な場であり、また大人であっても蔑ろにはできない場でもある。
果たして、われわれはデューイのいう「これから向かうべき社会への発達の『芽』を宿した」生活に生きているだろうか。いざというときには、そのことが問われるように思われる。