今日は、非常識な発言をいたします。
タイトル通り、「心って心臓だよね」って話です。
通常の人間ならば、何を言っているのって案件です。
心という漢字のおおもとは象形文字の心臓の形から、心と名付けられています。
でもでも・・・、
我々現代人は、心は心臓ではなく・・・脳にあると誰でも考えています。
知識、感情、意思などの精神的働きを司る部分は脳であり
心臓は、あくまでも血液ポンプ作用のみを働きとする部分という意味で
心臓には心は無いと思われているのが常識です。
はたしてそうでしょうか?
私は心の奥底で思っています。(PSYCHO-PASS発言お許しください)
サイコパス発言ついでに・・・
植物には口という器官がないだけで、
実は心に該当する生理学的感情は植物のどこかにあるのではないか?
と思っていますが、それは、解剖植物学では現されていません。
でもでも・・・ではなぜ?
植物にモーツアルトなどの音楽の振動を聞かせると、
より良く成長するのでしょうか?
話がズレてしまったので、もとに戻しますが、
心臓にはこころが無いと思われていますが、脳と心臓は密接に結びついていて
脳から発せられるホルモンによって様々に臓器が変化します。
通常、我々の心臓の鼓動が気になることは在りません。
しかし、内向性の気持ちなどによって、鼓動のリズムは同じでも、
やたらとドキドキと感じてしまうこともあります。
反回神経の感受性が上がって、感じないはずの心臓の鼓動を感じ取り
コレは不整脈じゃないのか?
などと気になって病院を受診するきっかけになります。
結果、強迫神経症などという診断をもらって安心して帰宅しています。
=͟͟͞͞( 'ヮ'=͟͟͞͞ 'ヮ' )=͟͟͞͞
心臓は年齢と共に狭心症や不整脈などの老齢変化をしながら、機能を低下させていきます。
新品同様の若い青春期などは、異性との恋心にトキメキ、
鼓動が高鳴ることが多かった訳ですが
老人になるにつれて、トキメキは、
不整脈などの病気の証として違和感を感じ始めてくる部分が
経年劣化とも云える部分かもしれません。
その間に、交通事故などの不慮の事柄、もしくは高額の宝くじが当たったり
遺産相続で莫大な遺産を手にしたりするなどして、
違う意味での動悸が発生してくることもあるかもしれません。
さて、その動悸という心臓のドキドキ感をどうやって鎮めることができるのでしょうか?
心臓のドキドキを抑える事ができるのは、脳機能以外にありません。
脳には、中心部から周辺にかけて、
動物用の機能、石器時代の機能、現代時代に適応するための機能という風に
神経と細胞の分布がなされており、
(専門家ではないので、このような表現になったことに注意と謝意)
大脳表面の人間たらしめる理性観念が、働きを多くすれば心臓の鼓動を収めることができ
また逆に理性という概念が薄まっていくことによって、
心臓の鼓動の抑揚が増していくように思います。
つまり、脳の大脳機能というメカニズムを排除すれば、
動物になってしまうということだと思います。
では、脳の小さな動物に心はないのか?と問われれば
愛護家であればお分かりのように、いくら小さな脳でも
人間のような高度な心の育みをしないけれども、
それに近い行動を見ることができるように
心という機能は果たされています。
脳の大小では、心は語ることは出来ません
でもしかし、
キュンとするシーンを見かけた時、胸が締め付けられるような思いをすることがあります。
逆ルサンチマンの変形と云いますか
可愛そうな人が救われた時に、涙することがありますが・・・
その時も、やはり心臓が一瞬締め付けられて、何かしてあげなければと鼓動が高鳴って来て
行動をする準備が整い、ついぞ駆け出してしまい時間軸を接触させてしまいます。
脳では、「めんどくさい事に関わるな、辞めとけ」、という抑制の思考が現れます。
しかし、「行かなければならない。是非とも干渉しなければならないのだ。」
という行動的気持ちは心臓の高鳴りから発生するように思います。
つまり、前向きな姿勢で人生を歩もうとする時、頭で考えるのではなく
心臓の高鳴りに同調して直感的に行動することの方が正しいと思えるのです。
脳は、常に抑制的に働き、心臓の鼓動は常に促進、推進方向に働き、
例えて云うなら・・・あまり良い例えとは云えませんが・・・・
友人と酒飲みに行くぞーーと云う時
俺に任せておけ!(支払いの面でも都合つけてやるぜ!)と胸を叩きます。
しかし頭は叩きません。
パチンコで大負けして、この行動は失敗したと思った時には、胸は叩きません。
判断の誤ったであろう脳のどこかの部分を叩きます。
つまり、楽しい行動を行おうという時は胸に聞いて
楽しくない行動を行おうという判断の時は頭に聞いているように思うのです。
大失敗の判断基準が脳で間違っていた。
でも、前向き肯定的自信が存在する時には、胸の中に存在する心臓は間違っていなかった。
やっぱり俺が正しい。
心臓は間違っていないかった。
というように、このような表現が正しかったのかは、いささか不明ですが、
真心や信念、やるべきことと思えることがある時には
自分の心臓に聞くということが間違っていないように思います。
ちょっと話はPSYCHO-PASS的にズレてしまいましたが
最近、常識外れ的な思考を包み隠さないようになってきまして、
友人がコレを見たら、頭がおかしくなったかと笑われそうですが、
今の自分には、心って心臓周辺にあるように思えてなりません。
もしかして・・狭心症になっていないと良いのですが・・・
実は、狭心症のドキドキだったとか洒落になりませんけど・・・チン
ということで、本日は常識外れな内容を書いてみました。
本日も、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。